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英語風に読むとオーベイク

にしのし


そういえばぼく、ホラーって全然見ないんですよね。映画も、小説も。アニメくらいかな、あとで気づいて「そういえばあれホラーだった」ってなるのは。

今まで見た中で一番おもしろかったホラーはなんですか、みたいな質問をされても思い付かない。

というか、ホラーという字面で連想するのって、ホラン千秋がこっちを向いて指をさして「ほらー笑」って笑ってる絵面なんですよね。ひどいね脳って。無責任。

……ぜんぜん関係ないけどホラン千秋ってホラー映画に出たら中盤に死にますよね。キャラ的に。すごい理知的なこと言いながらなんでそこで一人ででかけるの、みたいな。



と、ホラーについての会話を避ける傾向がある自分を眺めていると、どうもぼくもまたホラーが苦手なのかもしれないな、と思います。


あのね,自分で爪を切るとか耳掃除とかしてるときのことなんだけど。両手の爪を切り終わった/両耳の掃除を終えた,その瞬間に「あれっ? もう何本か/もう何箇所か,なかったっけ……?」って感じがするんだよね。「もっと切りたい」「もっと掃除したい」とか,そういう「物足りなさ」じゃなくて。こう……「なんか合ってない」感じ。「指/耳 って 10本/2つ じゃなかった気がする」……みたい,な……?


だから/しかし、この話はぞっとして惹き付けられるんです。

なんだろうな、こういう感覚を語られたときに、自分の内面に浮かんでくる感情って、ぼくの場合、あなたの従姉妹のおっしゃる「こわいよ」ともまた違うんですよね……。


さきほどまで書いていたとある原稿に、ふと思い至って、「脱皮するときの感覚」というフレーズを使いました。どちらかというと、これが近いかもしれない。少し説明します。

自分の境界部分、「外殻」が、内部のボリュームに比べて合わなくなるぎりぎり前に、外殻の一枚内側に、あらたにやわらかめの膜を作る。そして外殻を脱ぎ捨てる。新しい膜が乾燥してガチガチの境界として確定する前に、いそいそと自らの体積を増やして、結果的に「脱いだのに前よりも大きくなる」……。

この、「外殻を脱ぐとき」の気持ちに近いもぞもぞ感。

何か自分の想像を超えてはいるんだけど、実際には自分の中にも理解できる可能性が眠っているような、「何言ってるかわからないと言いたいのにわかってしまう感覚」を、ぼくは脱皮の違和感に重ね合わせています。

脱皮。

いちおう自分がでかくなることを想定しているんだけれど、一度は自分を守っている外側の境界面を捨てなければいけない、みたいな、えっ一回足を引いてから前に進むんだ、みたいな、ぎょっとするメカニズム。

これまで自分が自分の一部と信じていたものをあっさり剥落させてしまう喪失感。

殻の一枚内側に、「また同じように、前よりも少しだけいい膜が出来る」と信じていることの根拠の薄さ、ひ弱さ、不安……。



知ったような口を利きましたがぼくはこれまで脱皮したことがないです。変態metamorphoseはしてるんだけどな。みんなも「一皮むけた」とか気楽にいいすぎ。脱皮ってもっとすごいから(経験者の口調で)。



***



「やってくるはホラー」と書かれたとき、直感的に、人間の精神の中に存在するおそれという感情は、危機を察知するためだけにあるのではないのかもな、と思った。

よく、おそれは生きるための道具だという。痛みも苦しみもセンサーであるという。それを感知しないように生きると、うまく生き延びられるものなのだ、と。

しかしぼくらはどうやら、「自分の五感がこれまでに集めてきた経験知」と、「世の中にある、体感だけだとストーリーを想像しづらい事象」との間に解離があるだけで、特に自分の肉体に危険が及んでいないケースでも、「おそれ」という感覚を抱くようだ。

もちろん、これもまた危機予測の一形態なのかもしれない。説明できない事象を単純に脅威だと認識したほうが安全なのかも。

ただ……

ヘンなたとえ話だけれど、今ぼくが原稿を書いているこのPCの真裏に、5,6人の小人が「前ならえ」をしていたとする。これが本当だからといって、ぼくの生命に危機は及ばない。

しかしぼくは本当におそれると思う。「なぜそんなところでそんなことになっているのか」が説明できないとき、それが危機にはならんだろうなという確信があったとしてもなお、人間は「おそれ」という感情を駆動させる。


このような感情が、なぜ我々に実装されているのか?


たぶん……「考えすぎるのをやめる」ためではないだろうか?


完全にあて推量なのだけれど……

ぼくらは進化の過程で、「考えすぎる人間」を振り落としてきたのではないか。

「考えすぎたせいで死んでしまって子孫を残せなかったものたち」がいたのではないか。

逆に、「考えすぎる前に、こわいと思って逃げ出して、考えるのをやめて、また楽しい毎日を送る人」のほうが、結果的に歴史を作り子孫を残してきたのではないか。



あるいは、「考えすぎる人」は、子孫は残さないが思想を残したのかもしれない。今では幽霊とかオバケとか心霊現象とか妖怪とか超常現象などさまざまな名前を付けられている。つまりぼくらがこわがるものの一部は、昔考えすぎた人たちの子孫みたいなものだったとしたら、

迷惑な話である。

PCをパタンと閉じるとそこには5,6人の小人はおらず、たった1人の妖精が迷惑そうにこちらを睨んでいる。その妖精はメガネを



(2020.9.18 市原→西野)