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ハマヒルガオには地下茎があると昔絵本で読んだ

西野氏

おかげさまで夏休み終わりました。過敏性腸症候群が一発で治りました。そういうものなんですね。そういうものだよなあ、と納得しています。



「タグ検索」、「隣にあるファイルもついでに開く」、そして「一見関係ないものをも連想・着想する」ということ。

あなたから前回いただいたお手紙には、人間が脳の中にある記憶を引き出すときの、あるいは、引き出そうなんて思ってないのに脳から勝手に記憶が飛び出てくるときの、さまざまなパターンが詰めこまれているなあ、と思って読みました。



ささいなことかもしれませんが、一つのお手紙に、これほど「思い出す」のバリエーションが豊かに書かれているということにちょっと感動しました。脳というのは使い途が豊富……というか、使うタイミングごとに違う活用をされるタイプの道具なのだな、と思います。

今は思い出す、を太字にしましたけれど、日本語だけでも、思い付く、思い至る、思いが及ぶ、思うに任せる、など、思い出す系の言葉には少しずつニュアンスの違いがあります。それぞれの言葉ごとに、「記憶」と「脳」と「私」との距離感が全部違うというか、「必要な情報」と「しまってあるSDD」と「ユーザー」との間にあるベクトルの向きが異なるなあ、と思いを馳せています。


何が言いたいかというと……。


コンピュータサイエンスの発展はすさまじいですが、いくら「膨大な量を記憶できるシステム」を構築し、「すごいスピードで検索できるシステム」を整備しても、それらの使われ方にさまざまなバリエーションを持たせなければ、とうてい、脳は再現できないんだろうな、ということです。

やはり、タグ検索(ファイル名検索)だけでは脳のはたらきはトレースできないでしょうね。心はもっと、「多動」な情報処理をしているように思える。


まあ、再現する必要があるかどうかはともかくとして……。



細部に反応するようでおそれいりますが、「辞書」の話が出てきたところが今のぼくにぴったりフィットしました。『国語辞典を食べ歩く』を楽しく読んでいたからでしょう。

最近、辞書というシステム、あるいは辞書という構造のおもしろさをよく考えてしまいます。いわゆる「羅列型」であり、間違いなく「網羅型」であるはずですが、実際に使って見ると、隣の項目とも、遠方にある関連項目とも、うっすらと連関するようなアーキテクチャがあります。


(余談ですが、あなたの手紙で、辞書で何かを引くときに、

調べたい語にたどり着いたはずが,その近くに並ぶ別の語が気になって,そちらの解説文を読んでいるうちに「そういえば,あの単語って…」と,どんどん別の語を連想ゲームよろしく調べだしてしまって

と書かれていた場所。ここは、「隣のファイルを開く」と「連想・連環的に着想する」という、微妙に異なる二つの手段がシームレスに行われているんだよなあ……と思いました。)



最近よく、辞書は教科書よりも「通読」しやすいかもしれない、と考えています。えっ、辞書を通読なんて信じられない、と、瞬間的にぼくのドヤ顔にぶつけるための石を拾いに行った人がいるかもしれませんが別に鼻につく自慢をしたいわけではないです。辞書は単純に文字数が多いので、読み通すのに時間がかかりすぎますが、もし一般的な国語の教科書と同じくらいの文字数に「分割」したならば、教科書よりも辞書の方が読み通せるのではないか? というのをわりと本気で考えています。

なぜそんなことを思い始めたのかというと。

あなたが書いていた通りなのですが、辞書を通読するときの、「隣にある用語が微妙に関係ないけれど時々関係するという楽しさ」は、なんだか、ツイッターのタイムラインに「時々」似ているなあと思ったんです。「いつも」ではないんですけれど。

タグ検索で情報をアクティブに取りに行くのではない、隣にある用語の薄い(そしてたまに濃厚な)つながりだけを楽しんでいく感覚って、現代人が脳を使うときのメソッドとしては一番「眠っている」ような気がします。どうしても、タグ検索、グーグル検索型の情報えらびをしてしまいがちなので。

だからぼくは、脳の中で眠っている「隣のファイルを目にする喜び」を満たすために、辞書を通読したいと思うし、ツイッターを使い続けているのかもな、と思い至りました。



さて、これもあなたが書いていた通りのことですが(今回のお手紙は本当に発想を広げてくれます)、「隣のファイル」に目が行くと、すぐに、連想、連環、芋づる式、地下茎が伸びていって隣の花に繋がっていく、そういう思考様式が発動します。

世の多くの人、とりわけ特に文学を愛する人は、「連想」にわりといい印象を持っていると思います。これこそが人間の脳や心が持つ、AIにはできないすばらしい能力であると。

ぼくも同感です。そして、Amazonなどはすぐに「この本を読んだ人はこちらも読んでいます」のように、「連想を模した機能」を搭載してきますね。

しかし、ぼくらはこのような「連想のモノマネ」に、ときおり、物足りなさを感じることがあります。それはなぜかと考えると、

「ある現象Aから直接リンクすることが見え見えなBを提示されても、おもしろくないから」

かなあと思ったのです。

だから、

「ある現象Aの隣にたまたま置いてあるBを見て、そこから地下茎でつながっているCに思いを飛ばす」

くらいじゃないと、ぼくたちはわくわくできないのかもしれません。

今日はずいぶんと長くなりました。時間を溶かしてしまったらすみません。


(2021.10.1 市原→西野)