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デジャブの正体は量子もつれである

西野氏

ずいぶんと深い印象を叩き込んできたなあ。前回のあなたのお手紙を読んで、ぼくはそう思いました。ギアが上がった感じがある。いや、逆か? ローギアに入れてしっかりとトルクを効かせて、坂道にタイヤの溝をしっかりと噛ませて力強く登坂していくような感じかな。

いままでは,自らに湧き上がってくる「未体験なのに既知な気がする情景」をベースにデジャブというものを眺めていたのですが,そこに「自分の体」という視点を入れると,たとえば「大脳の記憶領域ばっかりじゃなくて,もしかしてもしかして,小脳あたりも微妙にうっすら巻き込んだ現象だったりする…?」などと新たな(雑な)考えもふわふわと脳に浮かんできます。

タイトルはおまかせしますけども/西野マドカ

そうなんですよね。

「出張先の東京のホテルで窓を開けたら、近くの繁華街から食い物のにおいが漂ってきて、昔すすきので訪れた焼き鳥屋のことを突然思い出した」
とか、
「カーブの続く峠の山道を運転しているとき、重力加速度に身を任せていると、遠い昔に父親の運転でおとずれた祖父母の家を思い出した」
みたいに、記憶というのは「身体を巻き込む」感覚があります(たしかに後者は小脳的かもしれない)。

身体が覚えている、という言い方は、運動をする人にとってはおなじみかもしれないけれど、実際には運動だけではなく、遠い記憶を引っ張り出すときにも、そしておそらくはデジャブにも当てはまる。

デジャブはどこか身体的ですよね。それはすごくよくわかる。ただ、だったらもう少し高頻度に経験してもよかろうになあ、ということも考える。前々回のぼくのお手紙もそこがネックでした。「デジャブがめったに起こらないこと」をうまく説明するのはけっこう難しい。


次に、こう書いてくださったのもおもしろかったですね。

デジャブが起こっているときの感情って,大部分が「なんだこれ……?」という”困惑”だったりしませんか。
(中略)
知っているなら起こるはずの”懐かしさ”のようなもの,それに多少なりとも付随するべき喜怒哀楽が微塵も湧いてこない。そのことに,ものすごい違和感をおぼえて困惑する感じといいますか

タイトルはおまかせしますけども/西野マドカ

そうなんですよね。デジャブには困惑がつきまとう。「感じるべきは懐かしさではないのに、思わず懐かしいと言いたくなってしまうこと」に対して、まさに情動が困って、戸惑っている。

この脳にこの身体ならばかつて「体感」していてもおかしくなかったけれど、かつての分岐では選ばなかったルートのCG。

複雑系の中でどこにどう転がっていっても「自分」だったろうなという確信の中で、実際には自分が転がっていかなかった方向の「体感しなかったけれどしていてもおかしくなかった記憶」をもてあそんでいるときの脳は、やはりどこか、苦笑しているのだと思います。


***


今週公開されたポッドキャスト「いんよう!」で、ぼくらは「本当は複雑に入り組んでいるものを、単純化して語ることへの恐怖」を、表現を変えながらずっと話している。

ツイッターで感想が投稿されるハッシュタグ #いんよう を見てみると、この回についてはいつもの3倍くらいのツイートが乱れ飛んでいる。ちょっとした衝撃回だったのだろう。あるいは、よう先輩とぼくという二人の偏屈な「元研究者たち」の根源にかかわる話をした回だというのが、視聴者にも伝わったのかもしれない。

ぼくらには、ぼくには、「端的にまとめたくない」という本能がある。
その本能は、より正確に言うと、「端的にまとまるわけがない」と感じている。なぜなら複数の道が同時に照らされて、複数の足跡が同時に付くようなことを、ぼくらは生きている間中やっている気がするからだ。


今回、あなたとのお手紙のやりとりで、デジャブについて、「自分だったら体感していてもおかしくなかった風景」や「実際には張らなかった伏線を回収する感覚」の話をしながら、ぼくはいつしか、自分が多層化する感覚というか、マルチレイヤーである自分が分離していくイメージに思考を委ねた。

今こうしてキータッチをしているぼくは、おそらくぼくというシステムの、ひとつのレイヤーにすぎない。「子機1」のようなものだ。そして、ぼくは他にもさまざまなレイヤーを持っており……ここからはじまるのは「分人」の話ではなくもう少しファンタジックな話。

ぼくのさまざまな子機のうち、一部はすでにぼくから分離して、パラレルワールドにいて、ぼくの知らない場所、知らない時間で何かを体感して、「ぼくらしく反応している」と仮定する。即座に、「それは間違いない」と思えるから不思議である。ぼくはたぶん他にもいるのだ。そして、分離してからお互いに没交渉になったはずの、「異なる子機」であるぼく(例:子機2)は、なぜか量子干渉のようにぼく(子機1)の記憶に影響を与えることができる。どうしてかはわからないけれどそういう設定なのである。子機1が感じる「なぜか昔ここに来たことがある気がする」というデジャブは、じつは「子機2」や「子機3」がどこかで実際に経験している内容の投影である。異なる子機が脳に干渉して、体験していないのに懐かしいという困惑と苦笑をぼくにもたらす。

「そう考えればすべての事象に説明がつく」。

今ぼくがやったのは科学の手法の雑なモノマネである。ニュートンが万有引力を発見ならぬ「発明」して、本当はもっと複雑であったはずの世の法則を一部抜粋して説明したことと相似形である。こうして、「ほかにも説明のしようはあったのに」、ぼくは一つの説明を好んで選択し、ほかの解釈を棄却して、エイヤッと話をまるめた。じつは、こういう「可能性の棄却」を試みるたびに新たな子機が分離し、ぼくの知らない世界で何かを体験して、10年後くらいにその影響がぼくにデジャブとなって襲いかかってくる。


(2021.11.26 市原→西野)