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仮病、クレイジー、週21

サッカー部って一般論としてモテる部活だと思う。その一般論に食ってかかりカスみたいな中学生活を送っていたのが俺が所属していたサッカー部なのである。

まあ、これは主語がデカすぎる上に全員がカスみたいな生活していたかと言われたら全然そんなことなかった。カスみたいな考えと生活は完全に俺個人の問題であり、マクロで見れば根暗 'n' 童貞のサッカー部員が1人いようがこの世には何の影響もないのだ。そんなどこにでも居る燻った人間が当時の俺であった。
中学でサッカー部に入ったのはただ、小学校からサッカーを惰性で続けてきたが為でありそこには特に理由があった訳ではなく、「知ってる先輩(怖い)もいるし、サッカー部行かなかったら何言われるか分からんしな」の気持ちで入部した。俺の通っていた小学校はそもそもの在校生が少なく母校の西小からサッカー部に入ったのは自分1人であった。小学生の時通っていたチームも1個上が1人だけ(2個上は10人ぐらいいた)だったため、2個上が引退して以降は完全に東小に呑まれていた。まあその割に2学年全体で16人の零細部活でした。仮入部を終えて練習試合に帯同させて貰えるようになった頃、ドリンク作りなどを教えてもらうのだがそれは決まって顔見知りの母校の先輩だった訳でそれは心做しか何らかの悲しさというか挫折の一つであったのはよく覚えている。
練習はキツかった。特に中一時代は本当に辛すぎて朝起きるのが嫌すぎて幽体離脱した経験があるレベルで嫌だった。それなのにクラスの人気者は外部のクラブチームでサッカーやっているエリートの人達でそのお零れみたいな自分はもうなんか、スクールカーストの真ん中寄りの下段左端辺りにスポッと綺麗に組み込まれていた。ただもうその部活動としての環境に身を投じた以上やるしかないと思い、茹で前麺量800gのようなガッツを胸に模範囚のような気持ちで働いていたと思う(この時期の場合働いていたという表記の方が正しい)。
だが、これはたまに中学のチームメイトと飲みに行ったりするとくどくど言われることではあるが、当時の俺は本気でポンコツだったので何度もミスっては同じ担当のNにブチ切れられていた。確かにまあポンコツだったけどそんな全部が全部俺だけだったかな?って聞いてみたらマジで俺だけだったらしく、隠蔽工作が尽くバレてるのが面白かったと言われた。隠蔽体質なのはこの頃からなのだろうと思う。それもあってか中2で顧問が変わるまでの1年間当時の顧問からの評価は多分教員生活の中でも圧倒的に最下位だったと思うぐらい俺は顧問に嫌われていた。まあそうですよねというか、開き直る気は全くと言っていい程ないが仕事も出来ないし、当時入学時点で170cmあったのにめちゃくちゃヘディング下手だったし(ヘディングのヘの字を丁寧に教えてくれた先輩には最大限の感謝を申し上げたい)、普通にあんまやる気ないし、外周クソ遅いしでそりゃまあ評価下がるわなと。
そんなこんなで夏になると本当に気狂ってんのかっていうレベルの暑さの中練習をするのだが、熱中症に近い症状が出ると特別棟と一般棟の間らへんで休憩させて貰うことが出来た。自分はその常連であって毎回本気で体調崩しているのに部員からは仮病だと言われていたのは言うまでもない。正直俺だって客観的に見たら仮病だって思うもん。まあ今となっては少しぐらい頑張って練習に着いてきなさいよと言いたい。中二からは顧問が代わりそこからは大分自分のサッカー人生が大きく変わっていったのを覚えている。その頃冗談じゃなくガチでベンチがポジションだった俺をサイドバックで大抜擢しその市大会で準優勝してから見事にスタメンの仲間入りさせて頂き、中二の夏頃からは専らフォワードとしてとにかく後ろから放り込まれたボールを俺がヘディングするかトラップして周りの味方に捌くポートボールさながらの作業ゲーの根幹を担うポジションを任されるようになった。しかし、やる気がない。サッカーは好きだがお痛な役割は好きではなかった。たまにサボって頭上を超えるボールを眺めては顧問の怒号が飛ぶなんてことも屡々あった。(西陽とキーパーのキックの精度がね……)みたいな顔してた。マジで今になってちゃんと怒られたくなってきた。そんな感じで中二の春季大会で準優勝して以降パッとした成績も納めないまま引退してしまい、最後の夏の総体では怪我で途中交代という後味の悪いまま歴9年間のサッカー人生を終わらせてしまった事は後悔している。それは今でもサッカーをする夢を見る事にあるように潜在的に後悔の念がどこか心の奥底に眠っているからだろうと思える。コンタクトにして視力良くしてもっと本気で練習してたらなあとたまに考える。だが、もう一度中学時代に戻ってサッカーやってくださいと言われても確実にやらないと思う。あんまやる気ないし。

学校生活ではその当時、中1の担任がサッカー部の顧問という爆死コンボセット(¥780)であり、何時いかなる時も気を抜けない監視社会への仲間入りをしたのであった。中2~3の時の担任はお気に入りに対して愛の強い婆さんで無論、皆さんのご期待通り俺はビックリするぐらい好かれてなかった。小4での公文式入会によるテコ入れによってある程度学力が並大抵のレベルまで持ち上げられた自分は学内では上の下辺を彷徨うぐらいの学力となり、勉学の面ではそこまで心配されるような学生ではなかった。一貫して国語と社会には滅法強い人間だったのでその上で洋楽聞いて英語に慣れよう!みたいな授業の1コーナーのおかげで更に英語もやる気に満ち溢れるようになっていた。「お前らに比べて俺はもっと洋楽を知っている。ハイスクールミュージカル、グリー、そいつらは全部商業主義の紛い物なんだよ。」って言いたげな顔でRadioheadとかThe smithsとかめっちゃ家で聞いてた。その5倍ぐらいのノリでPerfumeも聞いてた。それで、その代わり数学があんまりという感じで、公文式で先取りするぐらい自学自習のマスターになっていたのに二次関数などやった範囲を授業でやる前に忘れるの繰り返しというポンコツの才能を遺憾無く発揮し、苦手意識は無いのにあんま出来ないよく分かんない学生になっていた。でも係として何故か中2~3の頃は数学係になっていて特に中3の時の数学の担任には可愛がられていた。テストが近づくと進度の早いクラスはテスト前1時間を自習にさせてくれたりするのだが、そのタイミングでちょくちょく俺と世間話をするノリで「こういう問題はねえ〜形は違うかもだけど出す気満々だからw」みたいな事を平気で言うのでそれを鵜呑みにして本番を迎えたらまんま同じ形で出題されて「あいつマジかよ……」って思いながらスラスラ解いてまさかの数学で100点を取りガチの不正疑惑が浮上した。そのためその日一日はサッカー部野球部(部室棟で言うと4.5.7.8番室の方々)の間で疑惑に対する徹底的な糾弾が行われた。中学以降、定期考査で100点を取ったのは後にも先にもこれが最後だと思う。
俺の人生の裏テーマとして「キモがられる」というのがあるのだけれども、それが確立したのも中学時代の3年間だった。その頃からキモいのがかっこいいみたいなオルタナティブな考えを持っていた為にテイラースウィフトとかワン・ダイレクションとか聞いてた人達にはガチでキモがられていた。喋れるナードっていうだけで基本的には陽キャから中学生お笑いガハハハレベルのイジりをされ、それに対して冷笑的なツイート(呟き)をするみたいな……今は環境のお陰でなんとか擬態してヘラヘラ出来ているがあの環境下でそのクレイジー精神でいたのは正直良くなかったって自分でも思っている。でも、大学生になり、久々に中学の同期と会うと俺に対する再評価の流れみたいなのが一同にあり成人式の時はそれを多数お受けしてからはもうとんでもないぐらい気持ちよくなってえげつい量酒飲んだ事しか覚えていない。
ここまで思い返して意外と中学時代の学生生活に関する思い出が無さすぎて悲しくなった。まあ文化祭とかも無いし、体育祭も基本的にムカデ競走の先頭で必死こいた表情してたぐらいしかマジで記憶が無い。サッカー部なのに100m走がネタにしづらいくらいの遅さっていうのとか、騎馬戦で馬になり支える側なのに帽子取っちゃうとか、中3の時に体育祭の練習中に久々に会った顧問から肌白くなり過ぎて「お前体調悪いのか?」って言われたとか。後は殿堂入りエピソードトークの1つとして、高校受験をした時の話がある。前期後期で2回公立受験できるのだが、それで前期に歩いて行ける距離の進学校を受験しようと思い、出願のために同じ中学から受ける人6人全員で仲良く出願しに行った。連番で受験番号が渡され、自分はその連番の一番最後であった。合格発表の時は別々に見に行き一人、番号を確かめてみると一緒に出願した友達が次々と受かっており「これは!」と思ったら最後自分の番号だけ無かったという話。そのおかげで県立魔境高校に進学し、吹奏楽を始めたり、文化祭で裏テーマがラブホの模擬店をやったり、体育祭の時校長を5分ぐらい朝礼台に立たせたままオールブラックスのハカを50人ぐらいでやったりなど……今となっては結果オーライという感じでした。
マジで記憶バグってるのか本当におもろなかったのか……。でも中学の同期と飲むと割とポロポロ面白かった出来事が出てくるから本当に記憶力がカスなだけだったんだと思った。今脳内にある思い出たち、マジでその時はごめんね。

その頃聞いていたRadioheadやthe smithsの曲はこんな感じ、暗い


学校とは別にギターを弾き始めたのもこのぐらいからだったと思う。本当は小6から弾いてはいたけどちゃんと趣味として弾くようになったのはこのぐらいの時期だった。普通に家帰ったら宿題やるかシコるかTwitterで年齢詐称して埼玉県界隈の高校生と相互フォローになりつまんねえツイート合戦するぐらいで本当にやることが無かった。正味今と変わらないというのはあるけど。この頃ぐらいはずっと家でギターコピーしてたし、多分今よりもギター上手かったなって思う。それ故にロックに対する厳しい目を持っていたのもこの時期。多分ありとあらゆるJポップに対して牙を向いている尖ったハートの持ち主だった。元来、ロックはカウンター的なカルチャーであってそれが不良に繋がり、アジカンとかsunny day real estateとかが陰キャでもかっけえロックしようや!みたいなノリを生み、所謂スクールカーストの下層orはみ出し者の為に存在するようになったと思っていた。しかし、そんなはずのロックが今ではなんか野球部とかサッカー部に居そうな陽キャが聞くもの(基本ワンオクに対しての悪口)に成り下がってしまったんだと15の童貞が勝手に日本の音楽シーンを憂いていた。そういう所は今も相変わらずキモさを演出する自身のアティチュードを形成するもののひとつになってしまったとは思う。マジで失敗した。正直今では全然ワンオクかっこいいし好きだし、多分その頃に両親がハマって家とか車で爆音でワンオク流したりしてなかったら嫌いになってなかったと思う。反抗期でした……。

まあ本当にこんな感じで大して中学時代はつまらない訳では無いがおもろいことも無くしょうもないだけの3年間だったのですが、今の自分の根幹の部分というか基礎の部分が出来上がっていく過程の時期だったんだろうなと思いました。自分の場合、それが可燃ゴミによる埋め立てによって出来た地盤だったというだけの話ですが……。とりあえず中学時代の僕はワンオクのアンチだったというお話でした。おしまい。

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