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異色の経歴

朝早く起きることが大の苦手だった私は、自宅から自転車で20分で行ける高校を選んだ。
将来を考えて普通科に入ることを目標にして勉強したが、自身の性格や成績で「君は農業科が良い」と家族と教師に言われた。

考えてみれば、子供の頃から実家の畑や近所の山で自然と共に育ってきた私にとって、農業は生活の一部だったのだ。

田植えで泥まみれになったり、収穫したアスパラやきゅうりを振り回しながら走ったりと、農業の授業がある日は楽しかった。
家庭科では自分たちが作った食材で料理をし、文化祭では育てた植物を売って種や道具を買う資金にした。

そんな農業科に進んだことで、人生で初めて取得した資格が危険物取扱者免状丙種だった。
コンバインや草刈機を動かすのに石油が必要だったからである。
同級生たちが漢検や英検を受験する中、毒劇物、ボイラー、高圧ガス、情報処理などの名前を目にしていた。

天候に左右される農業とは正反対で、毎日のルーティンが求められるお堅い生徒会活動にも参加した。
図書委員として書架の管理を担ったのである。
週替わりで受け持つ図書当番と、植物への水やり当番。
施設の場所が、校舎3階と地上という全く逆の位置関係だったので体がふたつ欲しいと思うこともあったが、どちらの作業も好きだった。

日々活動する中で、夏休みの課題だった農業に関する論文が入選したり、鑑定競技と呼ばれる試験チームに選抜されたりと好成績が認められて、大学は学校側の推薦で私立に行けることになった。

試験が10~11月で人よりも早く進路が決まったため、余った時間でホームセンターでバイトをした。
危険物取扱者免状を持っていることを重宝がられ、主に資材館や灯油の担当だったが、娯楽施設も併設されている異色のホームセンターだったため、土日のシフトが特にカオスだった。

昼はラーメン屋でオーダーをとり、夕方から閉店にかけては生鮮コーナーでレジを打つ。
はたまた別の日は、午前中に花や野菜の苗を売り、昼から夕方に駐車場の屋台でたい焼きを焼いたあと資材館でフォークリフトに乗るなど、他ではなかなか経験できない職務だったと思う。

大学に入ってからもバイトは続けた。
夏休みは親戚の果樹園で箱詰めをして、冬休みはホームセンターとコンビニをかけ持ちした。
稼いだお金のほとんどはテキスト代と携帯代に消えたが、推薦のおかげで授業料の一部が免除されていたことと、奨学金を借りることができていたのでありがたかった。
貯金は出来なかったが、必要なものを買えるくらいのお金は残ったし、実家暮らしということもあり特に生活に不自由は感じなかった。
マルチタスクが求められる業務のおかげで仕事スキルも上がり、ちょっとやそっとのことでは動じなくなっていた。

植物の苗を売って、たい焼きを焼いている人物が、図書館司書資格取得のために市立図書館で実習をしている。
普段は作業着で活動する人が、スーツを着て図書カウンターに座ったり、書架の整頓や書籍の修繕をしているのだから、それはそれはお客様も混乱する。
畑違いの仕事を同一人物がやるはずがないと思われ、双子や三つ子に間違えられる日もあった。

おまけに就職先が農家でも図書館でもなくガソリンスタンドで、3tの配送車を乗り回すというなんとも面白い軌跡になってしまった。

7年石油業に従事したが、勤務中に腰の骨を折って退職。
1年の療養期間を経てから、警備員として5年働いた。
それも施設保安というもので、世間では万引きGメンと呼ばれる立場だったのだから驚かれるのも無理はない。

現在はてんかんも見つかり、体に無理はさせられないので、パート勤務のしがない販売員である。


そんな私が言えることは、1度きりの人生は自分のやりたいことをやるのが1番だということ。
学歴や職歴は全く関係ない。
誰に何を言われようが、ずっと続けてしまうことが自分の好きなこと。
嫌なことをやり続けるのは毎日罰ゲームをしているようなものだ。

苦手な作業が我慢できるのも、好きな作業が苦手の割合を上回っているからだ。


好き勝手にやっている、自由奔放すぎる、それでは食べていけないなど、外野の言うことは気にしなくていい。
そういうことを言ってくるような人の大半は、経験したことがない人か、羨ましがっている人だけである。

悩みの多い人達は性格的にも優しいし、あれこれ真面目に考えすぎだから、もっと肩の力抜いて、気楽にぼーっと生きてちょうどいいと思う。

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