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〜ある女の子の被爆体験記3/50~    現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。

原爆投下直後の証言

原爆はまず、100万分の1秒の間に大量の放射線を撒き、

熱線(2000度)が高度567mから人間へめがけて降り注ぎ、

3秒後から10秒後には最初の衝撃波が人々や家を押し潰しました。

かろうじてけがをしない人は、一見よかったようにみあますが、放射線は目に見えずに体に染み渡る、これが核兵器です。

8月6日、私の伯母は広島駅構内にいた列車の中で被曝しました。ノブコ伯母さん(当時15歳)の命をかろうじて救ったのは、コンクリートの壁や、列車の壁、ピカの光を防いだ木のブラインドなど、遮蔽の影響が大きいのではないかと、推察します。


今日は、遮蔽の違う方々の証言をもとに、被曝時の状況を考察します。まずは、多くの証言を残していただいた被爆者の皆様に心より御礼申し上げます。

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広島の爆心地から2km、14歳の中学生の証言

「中学2年生は、東練兵所の近くで、防火のために家を壊していた。作業をしていると、キーンという音とキラキラ光るものをみたときに、アメリカのB29が飛んでいるのがわかった。すると突然意識を失った。猛烈に熱い風が吹いたので目を覚ました。友達が折り重なって倒れていたが、友達の顔は不思議と炭のような色をしていた。なでると、顔がずるっとむけたので、『どうしたんだ?』おどろくと、友達は、『お前の方がひどい。顔がベロンとむけている』という。そこで、ようやく自分の顔の皮膚がずり落ちていることに気づいた」

屋外で作業をしていたこの中学生は、空を見上げていましたので、気を失ったご本人の記憶には残っていないかもしれませんが、いわゆる「ピカ」を直接見た姿勢をとっていたのかもしれません。中学生の友達とともに、「アメリカの飛行機だ」と、みんなげ見上げていたときに、原爆が落とされたのかもしれません。約2〜2.5km離れていた場所でも、コンクリートはもちろん木造家屋の遮蔽も無い場所で、中学生は、爆弾から真っすぐ熱線を受けました。綿の服でもごくわずかな差ですが熱線の遮蔽にはなります。だから、直接爆弾の方を向いていた側の服をきていない部分、この中学生の方の場合、顔や腕、は特にひどいやけどを負ってしまいました。もちろん、熱線によるやけど以外の症状、つまり放射線の症状が、このあと、この男の子を容赦無く襲ったことは間違いありません。

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ノブコが被曝直後の傷が軽かった理由は、広島駅のコンクリートの構内に遮蔽されたこと、列車の中で遮蔽されたこと、木のブラインドが閉まっていたため熱線を直接浴びることが無かったことなど、奇跡的な遮蔽が周囲にあったせいが大きいのではないかと考えられます。熱線や爆風から物理的に遮蔽することに意味があるだけでなく、放射線からの遮蔽として、コンクリートだけでなく、土の壁などが遮蔽となることを現代の私達でもあまり理解はしていません。遮蔽の話は、またいずれしましょう。

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爆心地から2.5km、遮蔽のない校庭で被曝(指田吾一医師の手記より)

8月6日の朝、空は真っ青で、真夏の太陽が照り付けていたと記録している。指田医師は、当時の広島県立女子商業学校の校庭、現在の広島市南区段原南にいた。上空に、アメリカの飛行機が飛ぶのを見た後、青白い閃光を見た。その瞬間、衝撃が走り、体が浮いた。
「倒れている私たちに、なんとも形容のできないジワッ、ジワッ、ジワッ、と繰り返し熱風が来る。熱風というより、細い針金の羽毛で、しかも熱く熱く焼いて、赤くダイダイ色になった羽毛で、繰り返し繰り返し、顔やそこら一面を撫で回されているような気持ちの中で、だんだん正気づいていった。」(「A Memoir of the Atomic Bombing 原爆の記 指田吾一」より引用)

2.5km離れていても、遮蔽のない校庭にいた指田医師は、熱線、爆風の影響をこれだけ直接受けていました。校庭で意識を失い、上司の方と重なって倒れていました。

指田先生は、この直後から医師として多くの人々の治療にあたっていました。広島でも長崎でも、地元の医師たちが、被曝直後から人々のために働いていました。

自らも被曝しているにもかかわらず、自分の家へ帰ることもできないまま、家族に会えないままに、原爆で苦しむ人々の治療にあたっていたお医者さんたちがいたことも、今はあまり知られていない事実です。

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