路地裏のオルガン

1

隣町との戦争が終わってもう3年になる。
荒廃した町は驚くほど早く復興し、町の人の脳内にはもう戦争という堅苦しい漢字二文字は存在していない。

唯一目に見える戦争の痕跡はいつも交差点の前に座っている片腕がない物乞いである。

彼はかつて3年前の戦争で戦った英雄である。しかし、この兵士は片腕を失ったことで兵士の職を失って物乞いとなった。

その肘から先の無い腕を人は数奇の目で見て、気分が良いときに石ころを投げるように金や食べ残しを彼の元に投げるのであった。

今日もそろそろ日が落ちる。この時間帯になれば、彼はいつもの寝床に帰る。寝床と言っても物乞いの彼に家などあるはずもない。

彼はめったに人が通らない狭い路地裏の奥に、運良く雨風がしのげるスペースを見つけ毎日そこで寝ている。

彼は交差点から路地裏までの道のりをただぼーっと歩いているのだが、今日は違った。路地裏の奥の寝床にオルガンが置いてあるのだ。彼は自分以外の存在がこの路地裏に存在していることに恐怖を覚えながらもそのオルガンに近づいていった。

2

「よう。英雄よ。」

その声はオルガンから聞こえてきた。
私は今日集まった小銭と食糧を地面に置き、いつでも拳をふれるように身構えた。

しかし、オルガンの周辺をいくら探してもその声の主は見つからない。

「ははは。いくら探しても人なんていないよ。だって話してるのはオルガンだからね。」

状況が理解できない男は身構えたまま硬直している。
そんな様子をみたオルガンは愉快な声で話を続けた。

「この世っておかしいだろ?例えば戦争中は英雄ともてはやされていた人間が戦争が終わった途端に物乞いになったりさ、そんな物乞いが3年間も生き延びれるほどに物乞いに小銭を投げる変わり者がいてさ。だからオルガンが急に話し始めるなんて全然不思議じゃないし、なんならかわいいほうだろ?」

男は全身の力が一気に抜けたかのように、地面に倒れ込んだ。するとハハハと腹を抱えて笑いはじめた。全身が痙攣しているかのように身をよじらせて長い間笑い転げていた。

「そうだそうだ。おかしくてたまらない。あはは!この世も自分の人生も、人と話さないうちにオルガンと話せるようになってしまうこともははは!」

しかし男は笑いが収まると神妙な面持ちで

「すまんが、ここで自分を殺してくれんか?」

と呟いた。

「何度も何度も自分で死のうと思うんだが、先ほど醜く生命維持をしようとしてしまったように、死のうと思うと無駄に本能が働いて死ねずに困っているんだよ」

男とオルガンの間には夜の冷たい風が吹いていた。

「申し訳ないが、それはできない。私には自由に体を動かせないのだ。」

「ではどうやってここまで来たんだ?」

「またおかしな話になるが、私は亡霊だ。戦争で死んで亡霊として3年ほど自分が生きているのか死んでいるのかわからず、ただ呆然と町をさまよっていたら偶然今日このオルガンを見つけた。なぜかこのオルガンに引きつけられ、気付いたらこのオルガンに入り込んでしまって出られなくなってしまったんだ。」

「そうか。あんたも兵士だったか。あんたは物乞いまでして生きている自分を見てどう思う?亡霊にでもなったほうが楽だと思うか?」

「それはあんたになってみなきゃわからない。ただ亡霊になって町をふらふらしているときに気付いたことがある。目的のない人生ほど辛いものはないということだ。だからあんたの痛みは分かる。」

オルガンは少し考え事をした後、なにかを思いついたかのように話し始めた。

「今から西に日が昇るまで歩けば、この町では唯一の青い屋根の建物が見える。そこには腕の良い調律師がいる。そこでオルガンを売って、まずは大金を得ると良い。そのお金を商売に使うのか、学問に使うのかはお前次第だ。お前は英雄らしく目的を持って生きろ。」

「そうか。おかしな話ばかりで頭がパンクしそうだよ。でもどのみち自分には失う物はないし、せっかくだからだまされたと思って試してみるよ。んであんたはどうするんだ?」

「実はね。思い出したんだ。自分が生きる目的にしていたことを。だからこれからすることも決まった。」

オルガンはこれからの希望を男に話した。

男は話を聞き終えると、目に活力を宿した。
その目は物乞いであった彼のものではなかった。
男は片腕を思いっきり、使ってオルガンを肩にかけ、西に向かって歩きはじめた。


3

青年は朝、父と一緒に作業場に向かうとみすぼらしいボロボロの服をきた片腕の男が玄関にオルガンと一緒にしゃがみこんでいるのを見た。

「オルガンを買い取ってもらいにお邪魔しました。」

父はオルガンの状態をザッと見た後、作業場の引き出しから大量の紙幣を出し、それを袋詰めにして片腕の男に渡した。

男は明るい表情ですぐに作業場を立ち去った。

オルガンは外に置かれていたんじゃないかと思うほど、汚れているし、男の見た目からしてこのオルガンが盗まれたものであることはほぼ確実だった。

しかし、戦後でオルガンがなかなか手に入らない状況を踏まえれば、汚れてようが、盗まれたものだろうが気にしていられない。

室内にピアノを運んだ後、父はにんまりとした顔で青年を見つめた。

「ひと月やるからそのオルガンを使える状態にしな。もしそれができたら一人前として認めよう。」

「お、おう。よっしゃ!頑張る!」

青年はすぐにそのオルガンの状態を見た。
部品の汚れやサビがひどく、気が遠くなるような作業が待っているのは明らかだった。

しかし、父の”一人前”という言葉を思い出すと全身に力がみなぎるような気がした。

無我夢中で作業をしているうちに夜が来た。

「戸締まりよろしく」

「はーい」

父が作業場をでるとより、作業場が静かになった。

静かな空間にひびを入れるような声が作業場に響いた。

「よう!青年!夜遅くまで頑張るね!」

青年は無言のまま腰を抜かした。

そして青年の顔は喜びで満ちあふれた。

「あなたはオルガンの妖精ですね!!父から熱心で才能のある調律師の前には必ず妖精が現れるんだと聞いておりました!祖父も父も妖精と話をしたことがあるって教えてくれたんです!!!」

オルガンは少し考え込んだ後、誇らしげに

「そうだそうだ。いかにも私がオルガンの妖精である。えっへん。」

と答えた。

「よかった。よかった。」

青年は急に声を上げて泣き始めた。

「青年よ。なにがそんなにうれしくて泣いているんだい?」

青年が少し落ち着いたのを見るとオルガンはすかさずにそう尋ねた。

「実は戦争で兄と弟を亡くしました。三兄弟の中でなぜか一番才能に恵まれないドベの僕だけが生き残ってしまいました。戦後父は妙に優しくなり、父が才能のない僕しか選択肢の無いという現実に絶望し、半ば店の未来をあきらめた結果、あの優しさが出ているのではないかと考えると苦しくてたまらずそれを忘れるために仕事に没頭してきました。しかしいまこうやって妖精に出会えたということは、自分にも才能があったということです!本当によかった!家業を潰さなくて済むんだから!」

「そうだそうだ。君には才能がある。大丈夫。君のペースで作業をしていれば間に合うから。大丈夫大丈夫。」

「はい!かしこまりました!」

兵士の亡霊はひと月の間だけ、オルガンの妖精として毎晩青年を励まし続けた。

「大丈夫。君には才能がある。」

その言葉には何の根拠もあるはずがなかった。
ただ青年はその言葉に乗せられ、どんどん才能を開花させていった。


4

誰もいなくなった教室で若い女教師がオルガンを練習している。
この教師は小学校の教師なのにオルガンが弾けない。
CDを使って授業をしていたら、こないだ同僚に嫌味を言われてしまい、それで意地になって練習している。
もうこのような練習をはじめて2ヶ月になる。

「優奈!今日も頑張ってるね!」

若い女の教師はその聞き覚えのある声に涙を流した。

「健介!健介なの!あなたどこにいるの?生きてるの?」

「残念ながらもう死んだよ。おかしな話だが死んでから亡霊になってしまった。あんなくそみたいな戦時下の兵士としての生活も君がいたから生きようと思えた。物陰の向こうで銃撃戦が始まったとき、いっそここから飛び出して撃ち殺された方が楽なんじゃないかと思ったし、自分が持っている銃で何度も自分の頭を撃とうした。ただ君がいたから生きようとした。最後は死んでしまったけど、そうやってもがきながら生きている期間が自分にとっては特別だった。それだけは伝えておかねばならないと思っていた。それともうひとつ。自分はもう死んだのだから、他の人と結婚して幸せになってくれ。これを飲んでくれないと自分はいつまでたっても亡霊のままだ。」

「そんなの!あまりに勝手じゃない!」

「ああ。勝手だ。でもほら。新しい光はすぐそこにある。」

「ねえ。健介聞いてる?健介?」

もうオルガンが不思議に声を発することはなかった。

「優奈さん。今日もお疲れ様です。」

若い男の教師が温かい紅茶を2つ持って教室に入ってきた。

その瞬間、オルガンがまるで重いものでも乗せられたかのようにぐしゃりと潰れた。


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