幸福論
まだ25年しか生きていない若造でも人生について考えることがあります。
東京で一人暮らしをしながら仕事をしていると、「なぜ働いているのだろうか」と思うことがある。
お金のため?
じゃあ、お金を手に入れておれは何をしたいんだろう?
そんなことを考えていたら「なぜ生きるのだろう」というところまで考えてしまう。
よく苦しんでいる人に「生きていればいいことがあるから」と引き留めるような物語を見るけど、
「それは引き留める側のエゴで、その苦しみを和らげることとは関係ないんじゃないかな」とずっと思っていた。
つまり、
「この先に良い事があるかもしれない」→「もう少し生きよう」
となる関係性がわからなかった。
でも最近、少しわかったことがある。
前に爆笑問題の太田光さんが
「人は生きる意味を知るために生きる」
と言っていたのを思い出す。
じゃあ生きる意味ってなんだろう、と考えた時に「この先の良い事」ってことなのかもしれない。
自分が無為に生きている生活のなかで、もし魂が震えるほどの幸せと出会えたとしたら、それが自分の生きる意味になる。
残酷なことではあるが、幸せのない人生にはやっぱり意味がないのかもしれない。
でも死なずに生きることで、少しでも幸せを見つけらるなら、それまで生きている価値が生まれるのかも。
ってことを考えると
「生きていればいいことあるよ」
うん、わかる。ある、きっと。「いいこと」なんて言葉じゃ表せないような幸せと出会えたら「生きていてよかった」って思うんだろうな。
じゃあ、俺の幸せってなんだろう、って考えてみる。
楽しいことは数多くあれど、魂が震えるほど、もはや楽しいという感情を超えるようなことが幸せなんだろうなと思う。
例えばゲーム。最近は仕事から帰ったら寝るまでずっとゲームをしているけど、これが幸せなのだろうか、と自分自身に問うてみる。
なんか違う気がする。楽しいのは間違いないけど、これをしているのが魂が震えるわけではないと思う。
でもケータイにイヤホンを差し、周りが見えなくなるほど、身体が自然と動いてしまうほど、思わず涙が出てきてしまうほど、好きな音楽を聴いているとき。
俺は間違いなく幸せの絶頂にいるんだろうな、と思う。
と、なんて話を先日彼女としていたんです。
でもその時、そんな心が揺さぶられるほどに好きな音楽を聴いてるときに「これを彼女にもきいてほしいな」と思うことを思い出したんです。
そう考えると、やっぱり好きな人と一緒にいることって幸せなことで、「生きる意味」ってことなのかもしれないな、とふと思ったんです。
そしてそれがそのまま「働く意味」にもつながるし、「ご飯を食べる意味」にもつながるんだろうなと思った。
だから好きな人といる時間は大事に、好きな人は手放しちゃだめだ、と思ったというお話でした。
お後がよろしいようで。
一緒に幸せになりましょう。
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