凝視したい/8月27日(日)〜9月2日(土)

8月27日(日)

朝早く起きて、大西巨人『神聖喜劇』第5巻(光文社文庫、2002年)残り200頁を怒涛の勢いで読み進める。14時から読書会なのだ。模擬死刑、招集の延長、神山のブロマイド、吉原や大前田のあれこれなど、盛りだくさんだった。かなり追い上げたが、開始時刻には間に合わず、結局30分ほど遅れて読書会に参加。会では5巻の感想、および通読しての感想を話し合う。二松学舎大学の山口ゼミが作成した人物相関図を見渡しながら、東堂にとって最も重要な人物は冬木ではなく大前田ではないかという話になった。それはエロティックな関係性であるという人もいて、わからなくもないなと思う。大前田文七という人物は大西巨人にとっても最もお思い入れのあるキャラクターなんじゃないかと勝手に思う。それくらい書き込みがあることは確かだ。わたしが『神聖喜劇』を読みはじめたとき、東堂の我流虚無主義のゆくえを追いかけるような気持ちでいた。おそらく自分自身、何巡目かの虚無主義を持てあましていたのだと思う。『神聖喜劇』は基本的には東堂の一人称の小説だが、「喜劇」と付くことからもわかるように、戯曲のような記述の仕方を取ったり、ときに三人称を採用したりと、形式上にもさまざまな工夫がある。引用の量が尋常でなかったり、途中時系列が錯綜していたりというところも興味深い。しかし第5巻は小細工のない、ストレートな書き方が採用されている。東堂自身も観念主義的な人物から決断主義的・行動主義的な人物へ変わっている。このことの清々しさはあるが、無批判に賞賛すべきでもないように思う。まだまだ未消化な部分が多い。夜にも宴があり、長い一日だった。帰宅して1時ごろ、眠る。

8月28日(月)

10時過ぎまで気持ちよく眠る。最近は夜遅くまで起きていても朝早く目覚めてしまうような日が多かったが、久々に熟睡できたようだ。今日からジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』(青土社、2021年)を読み進めるつもり、だったのだが、やはりまだ『神聖喜劇』のことを考えていた。東堂と大前田の関係について考えていた。大前田に対する熱情にくらべれば、安芸の彼女に対する情愛のなんと淡白なことだろう。安芸の彼女は、おそらく誰もが相当の美人を想像するのではないだろうか(話は逸れるが、わたしは能力や実力で評価されるべきときや、平等に扱われるべきときに外見で判断されることには反対だし、そもそも人間の顔面にあまり興味があるほうではない。しかし人間の顔面容姿に美醜が存在しないかのごときおためごかしにはなお一層反対である)。そして大前田に対して、わたしたちは醜男を想像するのである。そしてこの事実がなお一層わたしに敗北感をもたらす。ここにおいて、安芸の彼女の美しさなど、何ほどでもないのだ。『神聖喜劇』において男性と女性は等価ではない。「安芸の彼女」にしろ「ミス竹敷」にしろ、ろくに名前も与えられず、最後は亡くなってしまう。あからさまな落差があるのだ。そのことを責め立てたいのではない。なんなら是正されたくもない。ただ打ちのめされるばかりだ。失恋に似ている。わたしになんらかの闘争が残されているとしたら、この敗北、この失恋について書きつける、新たな物語の創造しかない。

8月29日(火)

月に一度の病院へ。特に何かあるというわけではなく、眠剤と安定剤をもらいに行くだけのような月に一度の通院を、もう5年ほど続けている。それ以前はもっと頻繁にかかっていたり、通わなかった時期もあるが、この5年間は月に一度というペースを守った通院を欠かしていない。主治医は機械のように毎回問診し、決まりきった文言を毎月くり返す。最初はそのために主治医が信用ならなかった。いまも主治医をベストだと思っているわけではない。ただベストを求めるものでもないと自分にも他人にも思い定めた頃と、神経症的なこだわりや因果を追及せずにいられない癖が少しずつ治まっていった時期は同時期だったと思う。気づけば5年が経った。薬はいまも手放せない。以前3日ほど事情があって薬を飲めずにいたら、大変なことになったのだ。ただ調子のいいときを見計らって、減らすことも可能だと、主治医には言われている。おおむねこれでいいのではないだろうか。これでいいと思っている。
外出ついでに美術展にも足をのばす。湯浅万貴子さんの個展「肯う地平」。ある飲み会で会ったのがきっかけで相互フォローになったのだが、作品が気になっていたので、見に行けてよかった。銀箔をバックに点描でヌードが描かれていて、それはある種の写実とはかけ離れているのだが、ずっと見ているとこういうようにしかありえないという気がしてくる。もっとこういう展示が見たいと思った。帝国ホテルプラザ2F、9月10日まで。

8月30日(水)

昨日一日出ずっぱりだったので、ぐったり。夕方図書館へ行って、またぐったり。このまま終わるのは悲しいと思いコンビニへお菓子を買いに行く。ほくほく顔で帰宅し、友人と雑談通話。今日という日に一矢報いた思い。

8月31日(木)

バイト。作業に時間がかかってしまい、2時間残業する。帰宅後、溜め込んでいた日記を整理。明日はパフェを食べる。楽しみだ。

9月1日(金)

友人とパフェを食べる。無花果のパフェだ。豆腐のアイス、味噌のブレッド、紅茶のジュレなどが入っていて、一口ごとに違う美味しさが口の中に広がる。ずっとパフェが食べたいと思っていて、まさにこういうパフェが食べたかった。窓際の席に横並びで座って、外の景色を眺めながらとりとめのないおしゃべりをする。ありがたい時間だった。

9月2日(土)

友人H君と、H君の友人Sさんと、三人でお茶をする。先週Sさんの体調不良によって会合が流れてしまったので、リベンジである。Sさんの話はH君をはじめとする何人かの友人から話を聞いていた。Sさんは写真をやっていて、映画や映像の仕事をしている。何度かSさんの名前を聞くうちに、どんな人なのか興味が湧いた。とても才能のある人だと。わたしは才能が人のかたちをしているものに、大変弱い。それが女のかたちをしているとなお弱い。才能という言葉はとても残酷で、差別的だと思う。その非人道的な言葉を口にするたび、甘くて毒々しいものが体中をめぐるような気がする。それはわたしが批評のごとき文章を書くときの熱量ともつながっている。
喫茶店に入るとH君が先に着いていた。席に着くと、緊張してますか?とちょっと笑いながら気にかけてくれる。「大丈夫ですよ、気さくな人です」とH君は言った。
やがてSさんが到着した。ゆるっとした蛇腹の布の服に無造作に括られた髪。こちらに気づいて、朗らかな笑顔で近づいてくる。確かに「気さく」という感じだ。話しているうちに気づいたら煙草を吸っている。ちょっと重い話をするとき、なぜかにやにやしている。この人いいなと思った。
さて、Sさんは、映画の仕事をして写真を撮っている。重心はどちらにあるのだろう、と思って聞くと、
「わたしは凝視をしたいんですよ」
と言った。つまり、ただ見つめていたい。写真はそれが凝縮されている。けれど実際には映画の現場のほうが「凝視」に集中できたりするのだという。写真は個人でやっているから、ディレクションしたり、その他の作業も自分で行わなければならない。けれど映画の現場は集団作業で分業なので、カメラ回りの「凝視」に集中できるのだという。だから写真がやりたいとか映画がやりたいとか、そういうことではないんですよねーとぼんやり遠くを見つめるような表情で言った。自分のやりたいことがわかっている人というのは、こういう顔をするんだなと妙に納得した。

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