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トラウマ社会で信頼感と安心感の中に生きる

米子基地に来て2週間ほどですが、リアル物々交換ライフを送っております。
町内の自治会長さんに書籍を差し上げたら、

奥さんのアップサイクルな不揃いトマト🍅の手作りケチャップをまず、1つ頂き、

自治会費を納めに行ったら、

更に追加でもうひと瓶と採れたてきゅうりの中で一番立派なのを頂き、

更にそれならと、こちらから、魔法瓶を2つ差し上げ、

そしたら更に、来週豆腐を手作りするから持っていくわ!と。

さらに、大家さんの80歳越えのおばあちゃんからは、ナスやピーマンやマクワ瓜などを頂き👵

じゃあ、次回は大家さんを夕食に招きましょう、と、当然なる。

うーむ、ぐるぐる循環してる!
米子市内でも、珍しいとの話ですけれども。
なんだか、支え合って生きてる感があります。

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日本のおばあちゃんの発想

地元Jリーグチーム・ガイナーレ鳥取で開いた、sonyCSL指導の協生農法・拡張生態系圃場の話は、書籍や以下で共有していますが、

そのガイナーレの社長で元Jリーガーの塚野社長のおばあちゃんのお話によると、
おばあちゃんが畑で作物をとる。
一番良いのを、隣人にあげる。
二番目に良いのを、市場に出荷する。
最も出来が悪いのを、自分の家で消費する。

これが、おばあちゃん世代のデフォルトだそう。
一番良いのをもらった隣人は、また自分のところでできた一番良い作物を隣人にあげ、さらにそのまた隣人は一番良いのを次の隣人にあげ、、、、と巡り巡って、またおばあちゃんのところに素晴らしい作物が回ってくる。

自分が作物を作る畑において、最も良い出来のものを隣人にあげるをコミュニティの中で繰り返す。
そこに、「ここは我が畑じゃ!」「そこでできた作物は我がモノじゃ!」という境界線はなく、土地は皆んなのもの。もっと言えば、人は、土地を預かっているだけ。という発想が根底にある。

もちろん、自我がなければ人は器としての自己を保つことができず、生きていけない。それはそれで無いとおかしなことになるのだが、根底にある繋がりや全体性を失ったままに、自我と多様性を主張すると、ただのカオスになる。

日本語は、主語がなくても会話が成り立つ珍しい言語で、日本人の元々の発想は、「我!」「我!」「我!」ではなかったはず。
自分の利益と権利ばかり主張し、すぐクレームだ訴訟だとなるのは、外来の割り算的発想ですね。数理による解説は以下、UZWAサイトより。

一方、東京での世知辛い話

一方、東京のマンションの部屋に、仕事仲間を招いて大人8人で夕食をしていたら、22時前に麻布警察が来て👮‍♀️「すみませんが、何やっておられますか?通報が...」と申し訳無さそうに言われ、数日後にマンションには、「このマンションの部屋を民泊に使っている人がいますが、違反です」と張り紙が。明らかにうちのこと。
たしかに、地方から出張に来た友人がスーツケースを引きずりながら寄ったりしていました。
さらに、その時期は、夫がしょっちゅうスーツケースを引きずりながら、出張に出かけていました。
が、ただそれだけですが…!

うーむ、、、世知辛い。

まぁ、同じマンションでも、気さくに自転車置き場で話をしたり、道で見かけても「あ、〇〇さんだ!」と発見して嬉しくなって笑顔で挨拶する人達もいるから、全員じゃない。
さらに、独身時代に暮らしていた麻布のマンションでは、大家さん夫妻やばぁば達、さらに常連のご近所さんも寄って、よくみんなでごはんを食べたり、テニスや旅行をしていたから、別に東京でも人によるので、一概には言えなくはあります。

トラウマ社会は家庭内も危険地帯

とにかく、元々、人と人との間にはコミュニケーションがあり、交流がないということはつまり、循環停止状態だから、そのコミュニティは死んでいる。
人間関係が極端に希薄な方が、実は異常事態なのだろうなぁと思えてならないのです。

希薄な社会では、安全域はどんどん狭まり、究極、自室だけとなり引きこもり。
これが、ポリヴェーガル的なトラウマ社会ですね。
一歩外に出たら、自律神経系は危機モードになるし、極端な話、家の中でも「不潔だ!雑菌で汚いから除菌しなきゃ安全に暮らせない!」などとなると、家の中にいてもアラートがなり、休まらない。
この社会で、安全域をいかに広げられるか。
環境やその中での出会いに対する信頼と安心感
それがある状態で世界と出会うと、本当に豊かで、楽しくて、感謝しかない。
今度、エディブルスクールヤードでクラスを持たせてもらうのだけれど、「循環」という4年生の4回連続授業の真の目標をそこに設定しています。

食べることは、世界と出会い、一体になることだから、イメージを膨らませたら、小さくなっていた自己が拡張していく。
素晴らしい打ち合わせにワクワクし、こんな授業ならどんどんやりたいなぁ。

大人がどこまで目には見えないが、確かに存在する繋がりを認識し、危険ではなく、安心と信頼感を持って、子供たちに、世界との出会いを提供できるか。

ポリヴェーガル理論的には「愛と遊びのホメオスタティック・ダンス」
レイチェル・カールソンの言う「センス・オブ・ワンダー」を持ち、ワクワクと未知なる不思議な世界と出会うには、根本の信頼感と安心感から来る遊び心が不可欠なのです。
拙著『腸と森の「土」を育てる---微生物が健康にする人と環境』(光文社新書)3章より引用。

安心・安全な環境での、他者とのハートのつながりや触れ合いが必要です。
安心・安全な状況では、自律神経の指揮者役(正確には、腹側迷走神経複合体)がしっかりと働いて、環境に応じて最適なハーモニーを奏でることができます。
交響曲というよりも、イメージは、自律神経によるフリースタイルなジャズセッションです。この状態を、先ほどご紹介した米国のポージェス博士によるポリヴェーガル理論(*8)では、「愛と遊びのホメオスタティック・ダンス」と呼んでいます。私はこの表現がとても好きです。
 人を生存させるために備わる根源的なプログラムである自律神経の声に従えば、人生に必要なのはつまり、愛と遊びなのです。自律神経がこの状態を保っている際には、腸内細菌たちもバランスを保ち、平和な腸内環境が維持されます。
 だからこそ、乳幼児期には十分な愛情関係を築いた上で、レイチェル・カールソンの言うところの「センス・オブ・ワンダー」、つまり、好奇心のままに未知なるものに触れるワクワクする冒険や体験をすることはとても大切です。大人も同様です。
「う〜ん、どっちも足りない!」。そんな声が聞こえてきそうですが、大丈夫です。ほぼ全員が同じ状態でしょう。私たちがそんな状態だからこそ、現代的な病気が増え、社会は混乱し、地球環境は悲鳴を上げているのです。
 つながりが分断された世界において、人と人、人と自然、人と地球、万物とのつながりを取り戻すことに、自然に備わる治癒力を発動させる鍵があるのだと思います。
 本書の真の目的は、分断された世界の再接続により、子どもも大人も、センス・オブ・ワンダーを取り戻し、地球上のあらゆる生命と共に、愛と遊びのダンスを踊ることです。

『腸と森の「土」を育てる---微生物が健康にする人と環境』(光文社新書)
お陰さまで、多くの方に共感・共鳴頂き、発売から5日で重版出来!頂きました。
これから、皆様との共創・共奏とても楽しみにしています。

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光文社新書のnoteでは、はじめにと目次を全文公開して下さっています。
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