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大阪を京都の外港として捉えなおすなら、応仁の乱と京都を調べる必要がありそう。。。

「水の都の大阪」「八百八橋」

という言葉もあるように、大阪と言えば、「商売の町」や「天下の台所」もそうですが、淀川・大和川が大阪湾に流入する、水運の町なわけです。

実際、水都大阪というサイトにも以下のように紹介されています。

大阪は、水運に支えられて経済と文化の中心的都市として発展し、明治の頃には“水の都”と呼ばれた。古くは難波津(なにわづ)と呼ばれた港が大陸、諸国との交易拠点として栄えた飛鳥時代までさかのぼる。

明治以降はまだ、150年程度で、飛鳥時代と言えば西暦500年代頃です。要は、この1500年前から水運ベースで栄えてきた街なわけです。

その点から、大阪を「京都・奈良といった都の外港」という目線で見直してみるとどうなるかを考えてみました。

そもそも外港って?

Wikiから外港の説明を引用してみましょう。

外港(がいこう、outer harbor)とは、主に内陸に位置するなどの理由により港をもたないか、港があっても機能が不十分な中枢都市の比較的近くの海浜部または川沿にあり、その都市の港湾機能を果たす港湾・港湾都市や港町のこと。また、主要港の機能の一部を分担する港湾のことを指すこともある。

なるほど、そう考えると、明治以降は、開国時の政策により、大阪の外港として神戸が発達しましたが、それ以前は、京都や奈良といった、港の機能を持たない、都の外港として、大阪が発達してきたというのも頷けます。

江戸時代始まった頃は京都の方が大阪より人口が多かった


江戸時代の主要都市推定人口
主要都市 1650年   1750年   1850年   1873年 
江戸   430,000  1,220,000  1,150,000   595,905
京    430,000  370,000   290,000   238,663 
大坂   220,000  410,000   330,000   271,992 

上記はWIKIより引用した、江戸時代における、各都市の人口推移です。こう見ると、江戸初期は京都の方が大阪より人口が多く、江戸時代を通じても、遜色ない人口推移です。

また、引用はしませんが、1450年ごろまで、京都の人口がダントツに多いのですが、1500年の統計になると、京都の人口が減り、堺や本願寺(大阪の地名)といったあたりが増えてきます。これは、要は、応仁の乱の影響で京都の住民がごそっと移転した影響なのかなと。

本当は、飛鳥時代とか平安時代における、大阪や河内の外港としての役割とか取り上げたいのですが、そのためには、応仁の乱が京都に与えた影響を考察しないといけない気がするので、ここでは置いておきます。

江戸時代の大坂繁栄は「米」が税金だったことも一因

東京油問屋市場の参考資料より引用します。

西日本の米に加えて越後や越前といった日本海側諸藩からの年貢米も大坂に集まり出した。西廻り航路は,寛文年間(1672 年 ) に川村瑞賢が日本海側にある幕府の直轄領から,北陸,中国地方を経て下関,尾道を経て兵庫,大坂に至る航路を開発したとされているが,それ以前から船の運行は行われていた。(中略)「若狭考」によると,「明暦年間に大坂の人が旅の途中で,越後国新発田の近辺で米があまりに安いことに驚き,船運によって大坂に運んだことが始まり」とされている。

江戸時代やそれ以前は米自体が年貢=税金として扱われており、それ自体が金融商品の性格も持ち合わせていました。大名からすれば、年貢米を運ぶ運賃の方が高くかかっては馬鹿らしいでしょうし、幕府としてもそんな手数料取られたくもないでしょうから、必然的に物流機能が強化されていくわけです。金融商品である日本中のコメが一手に集まれば、金融都市としての性格も強く出てくるでしょう。

つまり、大坂を支えた産業は金融と物流だったということが言えそうです。

第一結論! 大坂の繁栄は江戸時代から!

さて、「大阪を京都の外港として捉えなおす」という今回のテーマですが、第一の結論として言えそうなのは、「大阪の繁栄は江戸時代から」といえそうで、その背景としては、江戸時代の経済体制が米を税金としたために生まれた、「米」の金融商品としての性格に裏打ちされていたと言えそうです。

そうすると、江戸時代は、京都の外港としての機能が言えなさそうです。

どうやら、応仁の乱の頃の京都を紐解かないといけない状況になってきました。

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