自己紹介

(ひたすら自己紹介をします)(かきかけ)
(性格診断なんかをインターネットで検索して試してみると、「自己紹介をするのが得意である」という設問にはい・いいえというのが出てくる。わたしは自己紹介をするのがまったく苦手でないのだけれど、これは単純に技法の話な気がしていて、なぜならわたしのアイデンティティが非常に明確かと言われたらそんなこともないから)

 幼稚園生だったころ、人の手の指の先には必ずまあるい玉が浮かんで見えていた。まあるい玉は半透明で、比較的はっきりした色をしていて、中にはもやのようなものがうごめいていた。幼稚園の敷地でやきいもを焼いたとき、当時のわたしの目には非常に大きい炎から、火でできた鳥がはばたくのが見えた。周りはちょっと体を振り回す力加減ができない年齢の子たちばかりだったのでちょっと恐れていて、大人数で砂場に駆けるよりは絵本とぬいぐるみと家の机に並ぶ食事と会話をするのが好きで、目に見えないようなファンタジーな世界がもっとも鮮明に心に映った。

 雨の日の部屋、レゴで遊ぼうとしたら「どうしてひとりで遊ぼうとするの?」「どうして男の子のおもちゃで遊ぶの?」と言われ、黄色のブロックを箱に戻した。当時のわたしが持っていなかったことばを今のわたしはたくさん持っているけれど、当時のわたしは五感の味わい方を成長過程で失うことなくここまで持ってきた。

 自己紹介とはいえ、わたしを形作った要因をひたすら挙げていくのはあまりに不器用だし、意識的に意図をことばに拾わせようと思って編み上げる文章はどこか水っぽさが増えてしまう。そういう意味で自己紹介はとても難しい。けれど、わたしは、なにを話したいのか分かっている。


 わたしは、人々が生活する中で、必死にコントロールしようとする手足からこぼれ落ちる無意識がとても愛おしい。そういうものを掬いあげたくて自分の感性を大事にしているのかもしれないとさえ思うときがある。コンビニの商品に言及したときにふと見える友達の世界の見え方、本気で怒ったときでさえどうにも打ち消せない芯からのやさしさ、手放したように見えて大事に抱えることにしたときに生まれる許し。決して生活の中でやむなく用いる言葉だけではとらえきれないなにかがもっとも物理的な意味での日常生活を動かしている。

 こういう見方をするならば、日常生活はもはや芸術作品になりうる。つまり、誰かの生活を見つめさえすればその背景を正確に類推できるというわけではないけれど、ひとつのアクションの背景や理由として必ず「なにか」があることが分かる。大きな壁の向こう側にうごめくなにかの動きの物音を認識できるようになる。わたしは、「なにか」の中身よりはそれがあるという事実を大事にするのが好きで、そうやって人にわたしの生活を見てもらうことも好きだ。

 もっと言うと、「なにか」の良し悪しを決める前に、情報をたくさん集めることが好きだ。情報をちゃんと集めると、わたしは不思議と良し悪しを固めることの意味をちゃんと失うような思考をする。残されるのは、わたしがそれに対しどう繋がりを持つのかという決定と、わたしがそれをどれだけ愛するのか、どれだけ許すのか、どう感じるのかという値だけ。後者は自力でコントロールできるような値ではないので、自覚に努めるくらいしかやることがない。やることは非常にシンプルで非常に少ない。ほとんどすべての物事に対して、このくらいの距離感で生きるのが好きだ。これ以上はちょっと近すぎることが多い。

 ただ、さいきんはこの距離感の持ち方がある意味一方的過ぎる、相互的でないというふうに思い始めてもいる。なので、「どう繋がりを持つのか」というところをコントロールしようとするのを極力やめてみている。そうなると、残されるものは更に少なく、わたしにできるのは好きなものを好きだと口に出し、嫌いなものをじーっと見つめることだけ。あと、他者に耳を澄ますこと。これはこれで勇気が要って、たのしい。

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