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アルジャナン・ブラックウッド「The Prayer」試訳

 本日3月14日は英国の怪奇幻想作家アルジャナン・ブラックウッドの誕生日です。というわけで、短篇「The Prayer」を訳してみました。好奇心旺盛な医学生ふたりは「内なる視覚をひらく薬」とやらを服用しますが、果たしてその結果は……?
(Cover Photo by Ryan Hutton on Unsplash

祈り

アルジャナン・ブラックウッド
渦巻栗 訳

 ふたりが会ったとき、オマリーの目は輝いていた。「手に入れたぞ!」そう小声で言って、小さな薬びんを差し出した。おどろおどろしい赤いラベルが貼ってある。
「なんだ、それ?」ジョーンズはなんの話かわからないという風に訊いた。ふたりとも医学生で、思索を好むと同時に冒険心も持ち合わせていた。もっとも、いたずらを企むのはいつもアイルランド人のオマリーだったが。
「ブツだよ」という答えが返ってきた。「つくり方を例のヒンドゥー教徒に教わったんだ。今夜はひまだろ? おれもひまなんだよ。だから試してみようぜ。どうだ?」
 ふたりはその小さなびんと、目を引くラベルを見やった――「毒」と記してある。ジョーンズはびんを取っていじくると、栓を抜いてにおいを嗅いだ。「うえっ!」と叫んだ。「ひどいにおいだな。こんなの飲めないよ」
「飲むんじゃあない」オマリーがしびれを切らして言った。「鼻から吸いこむんだ――ほんのちょっとだけな。そうすると喉を下っていくんだ」
「アイルランド流の飲み方ってやつか」ジョーンズは心もとなさそうに笑った。「体に悪そうだな」びんをもてあそんでいたが、やがてもう一方がそれを取りあげた。
「気をつけろよ! まったく、この量だけで大臣でも馬でも殺せるんだぞ。本物の薬なんだよ。ヒンドゥー教徒には霊的な実験をするんだって言っておいた。覚えてるだろ、きのう話し合ったこと――」
「そりゃあよく覚えてるよ。でも、試す価値はないと思うな。具合が悪くなるだけじゃないのか」腹を立てているような口調で言った。「人生はただでさえ幻だらけなのに、この上さらに生み出すなんて――」
 オマリーは目をあげて、きっとにらんだ。「幻なんかじゃない」ぴしゃりと言った。「逃げるつもりだろ。手に入ったら試すって言ったよな。これの効果は――」
「へえ、どんな効果なんだ?」
 アイルランド人は相手をじっと見た。答える声はとても低かった。どうやら心から信じていることをしゃべっているらしい。その声もしゃべり方もまじめそのもので、重々しいとさえいえそうだった。
「内なる視覚を開く」と秘密めかしてささやいた。「思念や精神力を感じられるようになる」束の間言葉を切って、相手の目をにらみつけた。「たとえばだな」とゆっくり、大まじめにつけ加えた。「だれかがお前のことをじっと考えていたら、おれにはそれがわかる。理解できるか? 思念の流れがお前に届くところが見えるようになるんだ――お前に影響を与えて――あれこれやらせるところをな。空気中には、人間の精神から出たはぐれ思念がいっぱい漂っている。そういう思念が、どこかに止まろうとしている蠅みたいに、お前の精神のまわりを飛びまわるところが見えるようになる。わかるか? そういうのが原因で人間の気分がいきなり変わったり、なにか閃いたり、ひとを助けようとしたり――あるいは誘惑されたり――」
「そんなばかな!」
「怖いのか?」
「いや。ただ、危険な考え方だから――そういう実験をやるのと引き換えに――その――」
 だが、オマリーは友人をよく知っていた……。ふたりはいっしょに所定の量を服用し、笑ったり、嘲ったり、成功を祈ったりした。それから夕食をとりに出かけた。「食べる量はほんのちょっとにしないとだめだ」とアイルランド人が説明した。「胃袋をそこそこ空っぽにしとかなきゃならない。酒は一滴もだめだ」
「つまんないねえ」ジョーンズは言った。彼はいつも腹を空かせていて、たいてい喉も乾いている。ふたりが感じたのは、ジョーンズの言葉を借りれば、「ひどく不愉快な体内の熱」くらいだった。

 ふたりの正面のテーブルに、小柄な男がひとり座っていた。ふたりからするとやたらと着飾っていて、ダイアモンドの指輪をいくつもつけていた。顔には気品と悪意がおかしな具合に入り混じっていた――まるで、本当は繊細なのに、いろいろと事情があったり、むら気を起こしたり、なにか特別な誘惑に負けたりして道を踏み誤った人間のようだった。この男は、ふたりがかなり注視していることに気づいていなかった。というのも、男も注意を払って観察していたのだ――別のだれかを。料理を食べ、つつましく酒を飲んでいたが、わざと夕食を長引かせていた。彼が見ていた「だれか」は、はた目にも明らかで、ふたり組の田舎者だった。彼らは街を来訪中の外国の君主を記念する行事にやってきたらしい。大都会ロンドンにとまどっていた。どちらも手提げかばんを持っていた。時々、老人は胸ポケットをまさぐった。不安そうにあたりを見まわした。指輪をはめた男はふたり組の世話を焼いていて、自分の新聞を貸したり、塩をわたしたり、好意を持って、優しく共感するように、他愛もない話をふっていた。ふたり組にとても親切にしていた。
「まだなにも感じないのか?」オマリーが訊くのは十回目だった。束の間、奇妙な表情が連れの顔をよぎった。「おれのほうは楽しくもなんともないよ。あの先生にしてやられたんだな。あれは薄めた薬かなんかで――」彼は言葉を切った。相手の目に釘づけになった。ふたりはあまりに控えめな食事をとっていたので、給仕は忌々しく思っていた。そのテーブルには、もっと金を落としてくれる客を座らせたかった。
「いや、なにか感じるよ」落ち着いた声で答えが返ってきた。「感じるというより、見える。妙だな。でも、本当に見える――」
「なにが見えるんだ? おい、教えてくれよ!」
「金色の筋みたいなので、波打ってるよ」ジョーンズが穏やかに答えた。「金色できらきらしてる。白くなることもある。あの男の頭のまわりを飛びまわってるよ――ほら、向うにいる男だ」彼が示す先には指輪だらけの男がいた。「まるで――なかに入ろうとしているみたいで――」
「うそだろ」とオマリーは言った。これまで実験がうまくいくと思ったことなどなかった。「本気で言っているのか?」
 相手の顔を見てそうだと確信した。アイルランド人の背筋に震えが走った。
「静かに」ジョーンズがさらに声を低めて言った。「叫ばないでくれ。よく見えるぞ。波打っている光の流れみたいだ。奴さんの頭と目を取り巻いている。すごくきれいだけど――おお、いまは花みたいだ。花が舞っている――今度は細くてよくしなる金のひもだ。奴さんに入ったぞ! ああ、なんてこった、入っちまった――!」
「入っちまった?」アイルランド人は繰り返した。心から感激していた。
なかに入ったんだ。見えなくなった――すっかり頭に入りこんだんだ。見てみろよ」
 オマリーは目を凝らしたが、なにも見えなかった。「こりゃすごい!」彼は叫んだ。「ブツは本物だったんだ。ちゃんと効いてるぞ。よく見とけよ。お前が見てるのは思念だ――だれかから出てきた思念――はぐれ思念だよ。そいつが奴さんの頭に入ったんだ。行動とか身のこなしとか判断が変わってくるかもしれん。やれやれ! こいつはやっぱり薄められてなんかいなかったんだ。お前は思念の流れを見てるんだよ!」彼は途方もなく興奮していた。ところが、ジョーンズは目にしているものに夢中になっていて、興奮するどころではなかった。それが薬のせいかどうかはともかく、自分が見ているのは現に存在しているものだとわかっていた。
「いい思念なのか悪い思念なのかが気になるな」アイルランド人はつぶやいた。「どんな精神から出てきたんだろう。いったいどこから? 遠くからか?」あれこれ思いめぐらした。小声でしゃべくるさまは、息絶えそうな蓄音機のようだった。だが、相手はただ座っているだけで、うっとりして黙りこくったまま、目を凝らすばかりだった。
「ここでなにしてるんだ?」ふたりの後ろのテーブルから抑えた声が聞こえた。オマリーがふりむくと――ジョーンズはあまりに夢中になっていたのだ――私服の警官がいた。最近起きた毒殺事件で手伝ったことがあるので、たまたま顔見知りだった。
「特になにも。夕食を食べているだけですよ」と彼は答えた。「そちらは?」
 警官は目的を隠しはしなかった。「みなを見張ってるんだ。みなの安全のためにね」と言った。「それだけだよ。いまのロンドンは獲物でいっぱいだからな――みんな田舎から出てきて、かばんを手に提げて、金を胸ポケットに詰めている。だから、親切な御仁があちこちで連中を助けようとしているんだよ。ついでに自分の懐も満たそうとしてるんだがね」彼は笑って、指輪だらけの男のほうを頭で示した。「あそこにも古なじみがおられるよ。奴さんはこちらを知らんだろうが、こちらはよく知っている。いつもは牧師になりすましてる。今夜は隣のテーブルの老人ふたり組を狙ってるよ。ジョー・レアリーの名を賭けてもいい。じろじろ見るなよ、勘づかれるからな」
 もっとも、オマリーは自分も霊的な経験をしたいと思ったり、連れの「眉唾ものの現象」を観察したりするので忙しく、警官がスリを追いまわすことにはたいして興味が持てなかった。また友人のほうを向いた。「いまはどうだ?」警官に背を向けて訊いた。「ほかにはなにか見えたか」
「本当にすごいよ」ジョーンズは穏やかに言った。「また出てきた。金色の糸が見える。輝いていて生きいきとしている。奴さんの頭と心にすっかり入ったと思ったら出てきて、それからまた入った。あれのおかげで奴さんは変わったよ――まちがいない。いやはや、化学の楽しい実験みたいだな。見たままには説明できないけど、体のなかがなんとなく光ってるんだ――糸みたいな金色のものだ」ジョーンズはすっかり興奮して夢中になり、感激していた。彼が正直に話していることは疑う余地がない。実際に目にした光景を話しているのだ。オマリーはうらやましくも腹立たしい思いで聞いていた。
「ちくしょうめ!」彼は叫んだ。「おれにはなんにも見えないぞ。量が足りなかったのか」小さなびんをポケットから取り出した。
「見ろ! あいつは変わったぞ!」ジョーンズが声をあげ、オマリーはとっさに動きを止めたせいでびんを落としてしまい、びんは鉄の傘立てに当たって粉々に砕けた。「奴さんの考えが変わった。出て行くぞ。金色が体中に広がって――!」
「なんと!」オマリーが口を挟んだ。声が大きすぎて、まわりのひとにじろじろ見られた。「奴さんを助けたんだ――まともな人間に変えて――改心させたんだ。あれは恵みのはぐれ思念だ。追いかけるぞ! ほら、早く!」勘定したり、びんのかけらを片づけたり、慌ててあれこれやっているうちに、件の「泥棒」は店を抜け出して雑踏にまぎれこんでしまい、警官は「こんなうまい獲物を諦めるなんて、どうしたんだろうな!」とかなんとかつぶやいていた。アイルランド人は動きを止める度に、じりじりしながら急いで話した。「金の糸をよく見とけよ! 追いかけるからな! 出所まで辿っていくぞ。チップは気にするな! 早く、早く! 見失うな!」
 だがジョーンズは自分の揺るぎない確信に導かれて、とっくに外に出ていた。ふたりは通りを進んだ。ぎらつく明かりやわだかまる暗闇、往来の騒音や道を急ぐ群衆をものともせずに、ジョーンズが呼ぶところの「波打つ金の線」を追いかけた。
「見失うなよ! 頼むから見失わないでくれ!」オマリーは叫んだ。苦労して身をかわし、見えなくなりそうな後ろ姿を追いかけた。「それはまちがいなく別の精神から出てきた思念の流れだ。追いかけろ! 辿れ! 出所までさかのぼるぞ――きっとどこかの立派な思想家か――優しい婦人か――まあ、とにかく、気高くて輝いているはずだ」いまでは実験が見事にうまくいって、すっかり夢中になっていた。犯罪者を改心させられる思念なのだから、まれに見る純粋な思考が湧く、輝かしい源から出てきたに違いない。彼はヒンドゥー教徒がしていた話を思い出した。「思考の色が見えるはずだ――悪いものはおぞましい色で、むらがある――よいものは美しく、輝いていて、金の光の筋のように見える――それを追いかけていけば、思考を放った精神のもとへ行けるやもしれぬ」
「動きが速い!」ジョーンズが叫び返した。「ついていけそうにない。宙を飛んでいて、人混みの真上にある。流れ星みたいな跡を残してる。早く来いよ!」
「タクシーをつかまえよう」アイルランド人が叫んだ。「逃げられちまう」ふたりは笑い、息を切らし、ひとの流れをよけながら通りを渡った。
「黙っててくれ」ジョーンズが答えた。「無駄口をたたくな。きみがしゃべってると見えなくなる。あれはぼくの頭のなかにあるんだ。たしかに見えてはいるけど、きみのおしゃべりでぼやけちまう。ほら、早く来いったら!」

 やがて、ふたりはみすぼらしい街区にやってきた。ここはずっと閑散としていて、影は深く、光は暗く、皇帝たちが来訪中でもなんら変わらない。歩道の端にはマッチ売りも靴紐売りも「しつこくつきまとう、嫌ながらくた屋」もおらず、邪魔されることはなかった。ここには買う人間がいないのだ。
「金色から白に変わったぞ」ジョーンズが息も絶え絶えにささやいた。「いまは輝いている――すごいな、輝いている――夜明けの光が漏れだしたみたいだ。あと、ほかの糸も合流したぞ。見えるか? おい、網の目みたいだな。あれは光――聖なる光だ。あっ――おい――出所がわかったぞ! 向うの家だ。おい、見ろよ! 光の川みたいに、上のほうの窓から流れ出してるぞ。あそこの屋根裏部屋の小さな窓だ」――夜空を背に黒々と浮きだしている、みすぼらしい家を指した。「大きな流れとなって出てきてから、四方八方にわかれてる。すばらしいとしか言いようがないよ!」
 オマリーはびっくりしたり走ったりしたせいで息を切らしていた。無言だった。あのジョーンズが、鈍くてのっそりしたジョーンズが真のヴィジョンを見たというのに、いつも「ヴィジョン」を想像していた自分にはなにも見えなかった。彼は友人のあとに従った。ジョーンズはどこへ導かれていくのかを本能で把握している。口出しするのはやめておこう。
 こうして本能に導かれて、扉の前にやってきた。ふたりは足を止めた。はじめてためらった。「入らないほうがいいよ」オマリーはついさっき固めた決心を翻して、そう言った。ジョーンズは目をあげて彼を見た。ほんの少しだけうろたえていた。「見失った」と小声で言った。「筋が見えなくなった――」タクシーが一台、やかましい音を響かせて走ってきて、建物の正面にとまった。男が降りて、扉のところにやってくると、ふたりのわきに立った。例の泥棒だ。
 一秒か二秒ほど、三人は目を見交わした。いまやってきた男は明らかにふたりの顔を覚えていなかった。「ちょいと失礼、おふたりさん」と言って横を通り、呼び鈴を引いた。指輪がいくつも見えた。タクシーは唸りをあげて狭く暗い通りを走り去った。この通りでは、自動車よりも、石炭を運ぶ荷馬車の音のほうがよく聞かれるのだった。「あがるかい?」扉が開いてなかに入ると、男はそう尋ねた。オマリーは普段なら機転が利くのに、ひと言も返事が思い浮かばなかった。だが、ジョーンズは質問を用意していた。アイルランド人は、友人がどうやって相手を怒らせずに質問したのか、そして答えを聞き出したのか、さっぱりわからなかった。本能に導かれて言葉や声音や身ぶりを選び――どうにかしたのだろう。友人はこう尋ねた。上の階の道路に面した屋根裏部屋には、どなたが住んでいるんですか。男はそっと扉を閉めて、答えを言った――「おれの親父だよ」
 それ以外で、ふたりが聞き出せたのは――通りを行ったり来たり苦労しながら、ジョーンズが巧みに聞き出した――屋根裏部屋の老人は十数年も寝たきりで、姿も現さず、訪問者といえばたまに教区の世話人が来るくらいだということだけだった。だが、住民はみな口をそろえて、彼はすばらしいひとだと言った。「なんでも床に就いたまま、昼も夜も祈っているらしいですよ――世界のためにひたすら祈ってるそうです」そう教えてくれたのは、町角にある八百屋の主人だった。



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