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PGAツアー事件簿――by Drifter

【再びテキサスにて】

 1985年のことだったか、テキサスのトーナメントにて、とんでもない場面に遭遇することになった。PGAツアーへの張り付き取材で、何人かのプロと親しくなった。その中の一人にMプロがいた。才能があるのに試合になると、何かかみ合わせが悪く、予選を通ることが少なかった。アメリカのマスコミには変人扱いされていた。
「アメリカのマスコミはまともな奴がいない。優勝しても、取材拒否だ。覚えておいてくれ」と。
「何言ってんだよ。優勝して見返してやろう。そん時は、適当にオベンチャラ言ってやれよ。勝った時に取材を受けないと、PGAのルールで罰金くらうかも」
「そんな事はへっちゃらだ。ともかくアメリカのマスコミは嫌いだ」
 MプロはPGAのドンとも火花を散らせていた。運営などについて、公然と批判して、すでに罰金通告を受けていたのだ。
 プレー以外で問題を起こさない方が利口だ、と何度かアドバイスしていた。その都度、Mプロは「見ててよ。あいつらにあっと言わせてやるから」と。
 もめるなよ……しかし、何かが起きれば、こちらの記事にもなる。トラブルは夕刊紙には、おいしいネタでもある。
 ――まあ、予選を通って上位に顔を出した時の話だ、とそれほど真剣には考えていなかった。
 心配事は、それほど時間をかけずに現実のものとなった。
 テキサスのトーナメント。Mプロのプレーが初日から冴えた。初日は真ん中から、結構上。「この調子でへまらなければ、久々の予選通過。頑張ってくれ」。二日目もアンダーを積み重ねて順位を上げた。楽勝の予選通過だった。
 三日目はさらにブレークした。なんと63のコースレコードをマークして首位に立ってしまった。
 さあ大変。中継はNBCだったと思う。Mプロのホールアウトする18番ホールで、当時のでかいTVカメラとクルーが待ち構えた。プレスルームでの共同記者会見の手配で、PGAのプレス担当もいた。
「インタビューに来てくれるだろうね」
 プレス担当はちょっと不安そうに、私にささやいた。
「maybe……」

【No‼ No‼ No‼】

 Mプロが上がって来た。私以外の関係者が近寄った。「nice play‼」と声をかけながら。しかし、Mプロは「No‼ No‼ No‼」と硬い口調でつぶやきながら、クラブハウスのロッカールームへのドアを開けて、中へと消えた。
「Why!?」
「What!?」
 18番ホールのグリーンサイドは騒然となった。そのうちの何人かは私を見ていた。
 ついにやっちまったか、と思った次の瞬間、ロッカールーム入り口のドアが開いた。Mプロが顔を出して、手招きするではないか。
「私か⁉」と自分を指さすと、「yes‼」と笑った。しょうがない、PGA役員、現地メディアからの冷たく刺さるような視線を感じながら、Mプロの招くドアに向かった。そして「Are you serious!?」と言った。
Mプロは「Absolutely‼」と言って、ドアを閉めた。
 ロッカールームで、膝を詰めて話を聞くことになった。
「これから私が話すことをメモして下さい。そしてそれをPGAの役員に届けてくれませんか?」とMプロ。
 コースレコードのプレー内容と、それへのコメント。そしてなぜアメリカのマスコミに話たくないか、を書き留めてプレスルームに戻った。部屋全体が凄い空気だった。Mプロからの聞き取りメモをコピーして、PGA役員のデスクへ行った。
「Mプロからのメッセージです」と言うと、次の瞬間、PGA役員は顔をこわばらせて、「ジャップが出る幕じゃない‼」と声高に。すると、プレスルームにいた現地メディアたちも口々に言葉を発しだした。「yellow」「far east」、中には「hang……」なんて物騒な音も聞こえた。おいおい、西部劇じゃないぜ。
 テキサスでアメリカを象徴するようなPGAトーナメントで、たった一人の選手の造反劇に打つ手なしだったところへ、far eastからやってきた、たった一人の"有色人種"が、問題を解決しようじゃないか、と言ってきた、多分、そんな捉えられかただったのだはないだろうか。戦勝国が敗戦国を見下ろしているようにも感じた。……一皮剝けば、こうなのかもしれない。
 吊るされてはかなわない。Mプロの本心を伝えるために、もう一度、PGA役員の所へ行った。
「Mプロが直接説明すると言ってます。ロッカー・ルームで待っているようです」
 PGA役員はぶすっとしながらも、立ち上がり、「そうか」と言って、Mプロが待機していると思われる、ロッカー・ルームへ行った。
 そして20分くらいたった頃、戻って来た。いつもの穏やかな表情が戻っていた。ちょっとは進展したのかな……。
 PGA役員は真っすぐに私の所へやって来た。
「さっきは言い過ぎてしまった。海外からのお客さんに大変失礼なことを所てしまった。許してくれ。Mプロの話を聞いて来た。理解できることも少なくなかった。良ければ、君の集めたデータを使わせてもらえないだろうか?」
 PGA役員は私の集めたデータをコピーしてマイクの前に立ち、それを掲げて、「今、Mプロと話してきました。お互いに誤解もあった。彼とPGAとの問題は別の機会を設けて、話し合いを持つことになった。今日のプレーを含むデータに関して、Tokyo Sports Newspaperの記者から提供を受けた。非公式ではあるが、希望者は自由に」とアナウンスした。拍手が巻き起こった。
えッ!? 吊るそうとしていたんじゃなかったのか。
 私のデスクには地元の記者たちが次々と話を聞きに来た。何しろ、Mプロのプレーを見たのは私だけだったのだ。写真まで取られてしまった。決勝日は私とMプロのツーショットが狙われた。これが新聞にも載った。
 最終日、Mプロはスコアを伸ばし切れず、初優勝はならなかった。しかし、プロ入りベストの3位。ブレークの足掛かりをつかんだのであった。
 Mプロは、私の援護射撃をいたく感激し、「お礼にクラブあげようか? 私の使っているのを」と言ってきた。「だって商売道具じゃないか」と私が
遠慮していると、会場に来ていたクラブメーカーのワークショップへ行って、柔らかめのシャフトに交換してきてしまった。
 ベン・ホーガンApecsⅡ。――難しいクラブだったが、練習も楽しくなり、上達した。シングルの入り口くらいまでいった。しかし、やればやるほどゴルフは難しく、次から次と壁が出てきた。プロはそのずっと向こうの存在。アマとは比べ物にならないと悟った。
 Mプロはその後、何勝かした。メジャーでも勝てる能力を持っていると見ていたが、遂にその場面は出てこなかった。
――吊るされなかったので、今があるってことか。

☆Drifter(Koji SHIRAISHI) Tokyo Sports News Paperに約20年在籍。PGA、LPGAツアーに張り付くように取材した時期があった。

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