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「ごんぎつね」で煮た何かはなにか?

はじめに

7月30日は、「権狐」(ごんぎつね)の原作者、新美南吉の109回目の誕生日でした。
新美南吉研究で有名である愛知県半田市の「新美南吉記念館」では、お祝いの行事が開催されたようです。

奇しくも、そんな日に、Twitter界では「ごんぎつね」がトレンド入り。
きっかけは、次の文春さんの記事でした。

新美南吉は、29歳で咽頭結核が原因で夭逝するのですが、臨終の間際に、

「もう最後だ。立つこともできぬ。まだまだ仕事があるのに残念だ。池に投げた小石の波紋の大きくなった時を見届けて死にたかったのに、くやしい。」
「やなべの歩み」pp.195

と語ったとのこと。
奇しくも、誕生日にTwitterにおいて、さまざまな解釈が飛び交いました。
「ごんぎつね」という作品が、見事に波紋を描いたと思います。

(この日に出すとは、文春さんの担当者、新美南吉に造詣深いんじゃ?)

あ、9300字近くあり、写真もかなりの数を入れていますので、そのおつもりで。

1.「鍋で煮る」の前提

(1)新美南吉原本と鈴木三重吉編集版

ご存知の方はご存知だと思いますが、現在、教科書に掲載されているのは、児童向け文芸雑誌「赤い鳥」を主宰していた鈴木三重吉の筆が入った編集済み版が基となっています。
新美南吉の原稿は「権狐」、鈴木三重吉の手の入ったものは「ごん狐」と以下、表記していきます。
(「権狐」と「ごん狐」の対比については、木村功先生の対比表をご覧ください)

新美南吉の「権狐」原本(直筆)は、こちらで見ることができます。

Jpgで1枚1枚見づらい、文字が読めない、という方向けには、立命館小学校さんのこちらで。http://www.ritsumei.ac.jp/primary/db/201306181614.pdf

(個人的には、挿絵が入ると、どうしてもリアリティ感が薄れたり、作画家さんのバイアスが入るので、好きじゃないっす…検定国語教科書も、こどもが挿絵に引っ張られてイメージすることは否めないんじゃないでしょうか。それぞれの教科書に、挿絵があって、画風があって、絵本としての絵としては、私はそれぞれに高い評価をいたしてはおりますが、教科書としてはどうなんだろう? 以上、余談でした)

上記の「権狐」の直筆写真の掲載されているWebページ主、現在の愛知県半田市立岩滑小学校(旧:半田第二尋常小学校)は、南吉の母校であり、代用教員として教鞭をとっていた小学校でもあり、南吉が代用教員で18歳の6月頃に、5・6年生に向けて自作自演で「権狐」を話をしていたとのこと。
そして10月に、ノートに書き留め、「赤い鳥」に応募したものです。

「権狐」が記されたノート(通称:スパルタノート)
ノートに書かれた南吉の直筆「権狐」
(赤い鳥に投じたことも記されています)
「ごん狐」として掲載された雑誌「赤い鳥」
たぶんレアな写真。1月号裏表紙
掲載された「ごん狐」鈴木三重吉の編集が入っています
掲載された「ごん狐」のラストシーン
(挿絵の兵十、まさにハンターの出立ち)

(学校関係者は、著作権法第35条の範囲内で自由に写真をお使いください)

(2)「鍋」の原作表記?

「鍋」に該当する新美南吉原作の語ですが、左端列の最初に「はそれ」と記されています。

https://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/pic/genko/genko_g11.jpg

「はそれ」というのは、「はそり」のことで、ごんぎつねの舞台となった半田市の隣市、常滑市の南陵市民センターのホームページに詳しい説明と写真があります。

はそり鍋(はそり釜、平鍋など様々な呼称で呼ばれる)

中には、直径100cmクラスもあったそうですが、ごんぎつねの時代背景である江戸時代後期では、絶対にお高い品だったと思います。はたして貧農であった兵十氏宅にあったのか、村で共同所有していたものの葬儀用レンタルなのか。おそらくは後者ではなかったのかなぁ。

(3)人を煮る「鍋」の大きさ

人や鍋の大きさにもよりますが、男女問わず、頭頂部まで丸々の状態で煮るには、ちょっと深さが足りないんじゃなかろうか。
座った状態(胡座や正座)で煮る場合、深さは80cmは欲しいよなぁ。
が、そうなると、平鍋というよりかは、寸銅鍋みたいな形状が望ましいわけですが。人体を損壊した状態で煮ないと無理っぽいのか?

鍋茹でだから、こんなですが、「はそり」は釜とも称される訳で、では釜茹でで。釜茹でといえば、斬鉄剣遣いのご先祖様が釜茹でにされた事例が日本史上にはある訳で、そこから五右衛門風呂という…

五右衛門の茹でられた釜の大きさは諸説推測はあれど、正確な大きさはわからず。(史料となる「日本王国記」にも載ってない)

では五右衛門風呂はどうかというと、ありましたよ、大和重工株式会社さんの五右衛門風呂!(鍋や釜じゃないです)

大きさと形を見るに、やはり頭頂部まで一気に釜で丸茹でにするには、この形状なんだろうなぁ。
平鍋形状の、「はそり」じゃないわ、やっぱり。

(4)竈(かまど)を忘れるな

「権狐」を読んでいますと、

よそいきの着物を着て、腰に手拭ぐいをさげたりした女たちが、
表のかまどで火をくべていました。

そして、

大きな鍋の中では、何かがぐつぐつと煮えていました

とあります。
ここの読解、ちょっと引っ掛かりますね。

疑問1:大きな鍋(はそれ)は、
    A:直接に火にくべたのか
    B:竈の上で火にくべられていたのか

直接に述べられてはいませんが、竈があって鍋があると、
「竈の上で、大きな鍋は煮えていたんだろう」
と解釈してしまいます。
これ、おそらく認知バイアスがかかってしまっている状態なのでは?

上に載せた「はそり」の実物を見ると、現在の鍋にあるような取手がなく。Google先生頼りにして、「はそり」の現代版の画像を見ても、取手がないんですよ。
と、なれば、そのまま火にくべるよりかは、竈の上での方が取り扱いは楽だろうと考える方が妥当かなと。
加えて、この大きな鍋のあたりの文章は、「ごん目線」ですので、小狐たるごんの視線の高さを考えると、竈の上に鍋があるせいで、
「『何か』が見えないが故に、『何か』」
になっている可能性が高そうです。よし、「認知バイアス。クリア」ということで、竈の上に「はそり鍋」。

(5)その他の前提

権狐、ごん狐の文章表記以外に、「半田市誌」や「やなべの歩み」、その他、論文諸々、有識者ヒアリング、現地調査済からの総合的な前提です。

<舞台>
 ・尾張国知多郡岩滑村 
(現:愛知県半田市岩滑)
<登場人物>
 ・兵十氏(年齢・職業不詳)
  (ただし成人済=火縄銃扱えるので)
  ・コミュ障ではない
  ・村八分にされていた訳でもない
 ・兵十母(年齢不詳、死因不明
  ・小狐に勝手に死因を妄想される
兵十家(岩滑村内)
・貧困農家
 (おそらくは、1居間・1土間の簡素な家)
愛知県岩倉市史跡公園内の江戸時代の農家(鳥居建造)
これを老朽化させた感じが、兵十氏宅に近いのかな?
農家の内部(手前が居間、奥が土間 with 竈・台所)
竈を拡大したもの
赤い井戸(半田市岩滑)
兵十氏宅には庭先にあった(こんな立派な感じではないと思う)
  ・小作人ではない
  ・火縄銃を保有/保管できるくらいには信頼されている
  ・仏教徒
兵十氏の近所の人たち
  ・弥助、新兵衛、加助?、吉兵衛? あたり
  (兵十氏を入れたら、五人揃って五人組!) 

葬儀関連
 ・仏式:浄土宗徒か浄土真宗大谷派
  (当時の岩滑にはこの宗派が1寺ずつ)
  ・ご近所の支援あり
  ・村内共済組合的なものがあった模様
   (いろいろレンタルしていたみたい)
  ・喪主は白い裃(かみしも)着用。素材は知多木綿
   (江戸時代当時の喪服は白)
  ・土葬
  ・おそらくは、木棺で、座棺(たて棺桶)
湯灌(方法はいろいろ)は最低限した可能性あり
・葬式は現在の9月下旬〜10月初旬(彼岸花の咲く頃)
  (農家の米の刈り入れ前)
  ・当時の共同墓地は村の南のはずれ。んで墓地の面積自体は狭め。
図2 今昔マップ(明治24年の岩滑周辺)
たて棺
https://www.e-sogi.com/guide/4352/#i-3
<登場動物>
 ・ごん(性別不明)
  年齢:オスの場合6ヶ月、巣分かれしたばかり
     メスの場合18ヶ月程。子育てヘルパー経験有)
  ・村人・村人の家の識別可能
  ・村人の家族構成まで把握済
  ・祭の存在を経験
  (岩滑村の場合、春4月と秋9月に1回ずつ)
  ・自身の体験や知識を統合化できる知能
  ・因果の推察ができるくらいの高度な知能
  ・前脚を器用に使い、モノを掴むことが可能な稀有な身体能力

さ、前提となるような素材は、とりあえずは揃った感じですね。
待て、土葬に詳しくなかった!急いでアマポチしましたよ、Kindle版。
参考文献に2冊追加。

ポチらなくても、おおよそ「土葬」について理解可能な書評はこちら。


2. 鍋で煮たものとは?仮説集

 本件に関して申せば、石井光太さんの著作をまだ入手していませんので、どのような主張を著作内でなされているのか、私にはわかりません。
 ですので、冒頭のインタビュー記事のみで推測してみます。
 えぇ、こどもがどうのこうのという話ではなく。

 本件、Twitterで多数派を占めた(筆者調べ)のが、
A-1「今時のこどもは、葬式で、通夜振る舞いや御斎(おとき)を、近所の人や親戚が手伝って調理することなんて知らない」
A-2「葬儀の仕方が変化して、全てセレモニーホールなり葬儀屋さんが通夜振る舞いなり御斎を手配し、テーブルの上に仕出しが出されていて、こどもは(近所の人が調理の手伝いをすることを)知らない」
 また、散見したのは、
 「A-1にしろ、A-2にしろ、葬式の常識だろ!
 というTweetも。

 常識、大好物です、私。
 だって、常識=認知バイアスの塊 であることがしばしであるからです。
 特に葬儀の仕方ってものは、地域によっても、宗教や宗派によっても、様々ですからね。まさに「個別最適」なんですよ。
 ですから、その方なり方々の主張する「常識」というものは、普遍化なり共通化できるんですか?って話ですね。
 加えて本件、「権狐・ごん狐・ごんぎつね」は共通して、いつの時代の話だっけ?なんですよ。
 図示するとこんな感じ?

図1 ごんぎつねの舞台背景となる時代の葬儀って?

いやね、誰も知らないんですよ、江戸時代後半の尾張国知多郡岩滑村の農家(宗派不明)のそれも貧農な家の葬儀のしきたりとか作法とか。
文献も探しましたがね、私が探した範囲では「ない
(あったらば誰かご教示くださいませね ♪ )

ですので、これから述べますのは、全て「仮説」です
正解はない」ことを前提に楽しんでみます。
唯一、正解を知っているとすれば、新美南吉だけです。

さらに仮説の前提として、
(文章から)
・「ぐつぐつ」というオノマトぺから、液体が沸騰状態で強火継続状態
・「何かが」=観察眼およびキツネとして嗅覚に優れた「ごん」が知らないもの・理由
(私の勝手な想像)
・寝たままで母は死去。死後硬直あり。

仮説1)湯灌誤認で「遺体」煮た説

土葬の村」によると、まずは遺体の膝を死後硬直の始まるまでの間に、座棺の納棺で支えないように折る。男性は胡座、女性は正座。湯灌は、湿らせた布などで拭く場合が一般的であり、胡座や正座の状態で湯をかけて洗う場合もあったそうで。
ただし、岩滑村でされていたかは不明。

 湯灌あたりのイメージで、母を煮るという誤解が生じたのかなぁ?説

仮説1.5)屋外設置の竈で「煮る」説

 竈は葬式で庭特設用の村内共有の貸し出し用?はそり鍋もセットで?
 仮に「はそり鍋」が人を煮るくらいの大きさで、それに応じた竈だったのかもしれない。

釜(鍋)茹でっていうと、古来から、残忍な刑罰の一種であり、たとえ遺体であっても、煮ることはしなかったんじゃないかなぁ、岩滑村では。
兵十母、病人ではあっても罪人ではなかったのは確定なんで。 

仮説2)「縄」説

 死後硬直した遺体を納棺するにあたっては、やはり座棺の棺桶に納棺するのは、一苦労。
 対策として、荒縄で遺体を縛って納棺するということもしていたみたい。

 荒縄(材質不明)を、柔らかくしようと(いわゆる「なめし」)で煮ていた?という説。
 このあたり、女王様とか縄師の世界に入るので、詳しい検索は自己責任でお願いします。新たな世界が開かれる可能性もあるかもしれませんね。私はNew World 未体験ですけど。

仮説3)熱湯消毒洗濯説

1) 兵十宅は貧乏で、母の死装束が買えなかった。
   だから常用の服を死出の衣装として着せてやろうと。

   ただ、おそらくは着たきり雀かつ、寝たきり在宅介護で、ちょっと汚れて臭ったので、仏さんに着せるのは申し訳ない。
   お湯で煮たろうか、という説。
   (お湯で煮ても、葬儀当日の天気はピーカン☀️なのですぐ乾く)

2) 作者の新美南吉の死因は何でしたっけ?
  「咽頭結核」
ですね。南吉の母方叔父も胸の病気で亡くなっています。
   南吉の実母も?という説もあります。
   そう、兵十母も「結核」だったという裏設定が、新美南吉の中には
   あったのかもしれません。

   ただ、「菌を煮沸消毒すれば、感染は予防できる!」
   という医療なり保健衛生知識が農村にあったのかは調べないと。

   「日本における結核の歴史」岩崎龍郎
   江戸時代には菌とか煮沸消毒とか医療保健衛生知識なさそうだわ。

3) 時代背景+病気

   さつまいもが出てくることから、少なくともこの話は、享保の改革以降の話。(尾張地方の貧村まで伝播するには時間を要した)仮に時代を幕末に近い頃とすると、流行ったのは、コレラ。

   もしかすると、弱っていた兵十母が罹患したかもしれね。
   これも結核よろしく、医療・保健衛生知識なさそうだから却下。
   せっかく思い浮かんだんだけど。

 「煮沸消毒してやるんじゃあ、遺体も服も」ということで、母の遺体に湯灌に加えての熱湯で煮沸消毒説、この説、消臭説以外は消えそう。。。

仮説4)骨変形で納棺用に煮た説

1)脚気
 脚気と結核は、江戸〜大正時代の2大死因だったそうで。
 脚気はビタミンB1不足が原因と。
 そういや、ごんは、「兵十母はうなぎが食べたかった」と勝手に妄想狐をしていたわけですが、うなぎってビタミン豊富だったよな〜と。
 あら、文科省がこんなデータベースを持っていたなんて!
 確かに、ビタミンB1あるわぁ、うなぎ。天然物ならさらにありそう!

 兵十母の死因を脚気にすると、ビタミンB1不足に加えて、食欲不振に加えて、骨まで変形している可能性はある。
 となると、遺体は骨変形のせいで、納棺できなくなる大問題が発生。
 熱加えて、骨折りやすくして納棺しようか? 茹でる? 煮る?
 みたいな話が出たかもしれない。知らんけど。

なんだか順調に信憑性に富んできた感じの仮説ですが…

兵十が、赤い井戸のところで、をといでいました。

あぁ麦飯っすか。貧農であった兵十氏宅。精米した白米なんて、玄米すらも常食にするわけがないじゃないですか。麦とか雑穀が常食だろうに。
見逃してた。(江戸時代は江戸や大阪で脚気は流行したそうで「江戸患い」とも言われ、精白した白米を常食にして玄米のビタミンB1成分を摂取していなかったことが原因。脚気の原因がビタミン欠乏によるものとわかったのは、20世紀に入ってから)
食生活からすれば、脚気にかかる率少ないなぁ。
この説も却下っぽい。

2)リウマチ
慢性関節リウマチの患者のうち、30代から50代の女性は、発症率が高いそうで。
 江戸時代は、農村男性でもおよそ14-15歳くらいで成人として認められたそうで、農村女性の結婚ー出産年齢も15-16歳くらいと早かったわけです。

 物語中には、兵十氏(年齢不詳、独身。妻帯経験があるのかは不明)が火縄銃を保有/保管していることから、およそ成人済だろうなぁと確定して良いと考えます。
 となると、亡くなった兵十母の結婚ー妊娠ー出産年齢を、当時の一般的な年齢とすると、兵十が当時の成人したてだとすれば、現在だと、兵十は中3〜高1?くらいで、15+15で、兵十母、30歳+くらい?となれば、なんだか、物語として、すごく違ったイメージを持ちそう。
 なぜだか、兵十、40歳超えのおっさん、兵十母、60歳以上みたいなイメージ。
 これね、挿絵とかアニメの影響強すぎるわ、たぶん。
 現在の日本って、高齢化が進んで「死ぬのは高齢者」的な認知バイアスがあるので、兵十母も、兵十氏も、結構、歳食ってるなぁで考えてしまいがちですねぇ。

 話が横道にそれている感じなので。元に戻すと、兵十母は、慢性関節はじめリウマチになっていてもおかしくはない年齢ではあるわけですね。
 新美南吉の登場人物設定、意外なところに隠れていた感。

 兵十母、30代でリウマチ発症で死亡。関節などが変形して、納棺(座棺)不能。だから煮て、納棺用に遺体をTransformだ!

 リウマチ罹患や関節変形や死後硬直しているって、医師免許もない私が勝手に私が推測しているだけですが、おそらくは食欲もなく栄養不良状態で痩せて死んだかもしれない、兵十母の遺体って、やっぱり煮ないと納棺できないの?
 筋肉ガチガチになったら、風呂入ったり、温泉行ったりするわけで。
 沸騰した熱湯で効果あるんかい?ぬるま湯に浸けた方が筋肉とか骨とか柔らかくならない?
(この医療分野とか、納棺師さんたちのお仕事内容とか遺体と納棺の詳細までは調べる気力・時間・財源なし)
 が、可能性としては興味深いものがあります。

煮ててもおかしくはないかもしれんぞ、こどもたち!

 けどな、「何かがぐつぐつ煮えてる」という表現は、鍋に何かを入れて、おそらくは放置しているようにも思えるのです。
 遺体を煮る場合、「はそり鍋」の側に誰かがいて、遺体を支えているとか、そのあたりの「はそり鍋」+「竈」の特性や形状を考えると、やっぱり違うかもしれないね。。。

仮説5)普通に調理

(あれほど、食べ物を出してくる描写があるのに、ここだけ「何か」という表現していて、かつ、キツネは嗅覚が鋭いので、食べものならばわかるはず…へそ曲がりなんで、個人的には調理じゃない説)

ただね、ごんが知らない食材だったら、「何かが」という、ごん目線での記述にも納得せざるを得ない。
(実際に、江戸時代の岩滑村の通夜振る舞いの料理とか、御斎とか、どんなだったかは知りたい。農村部における通夜振る舞いの料理とか、御斎なんかは、地域性とか宗派的に未だに豊かなんで。浄土宗や真宗大谷派といえど、おそらくは精進料理だったんじゃないかとは思いますが。
 芋なり豆でも煮込んでたかと思うと、「ぐつぐつ煮る」ってのは、一番しっくりくるのかも。

仮説6)お湯

 湯茶の振る舞い、湯灌用の湯、など、単に湯を沸かしていただけ説。
(それだと、普通に何かを煮るって表現しないはず)

仮説7)答えは簡単だった!

 仮にテストで出題するとすれば、登場動物たる「ごん」の視点で書かれてあるパートですから、

<登場動物>
 ・ごん(性別不明)
  年齢:オスの場合6ヶ月、巣分かれしたばかり
     メスの場合18ヶ月。子育てヘルパー経験有)
  ・村人・村人の家の識別可能
  ・村人の家族構成まで把握済
  ・祭の存在を経験
  (岩滑村の場合、春4月と秋9月に1回ずつ)
・自身の体験や知識を統合化できる知能
  ・因果の推察ができるくらいの高度な知能

  ・前脚を器用に使い、モノを掴むことが可能な稀有な身体能力

「大きな鍋の中で煮えていたもの」の最終的な答えは、

「ごんの知らないもの」

となりますね。
いやぁ、Twitterでの論争、意外と早く決着ついたじゃん(笑)
国語力、読解力って、たぶん、こういうこと?(笑)

権狐」を読んでみると、「何か」という言葉が4ヶ所出てきます。
「ごん狐」と対比させると、3ヶ所は消されちゃっています。
唯一、ママイキの何かが、この箇所の「何か」だけなのは、何かの示唆を感じるのは私だけでしょうか。

おわりに

脳内、そして眼球、だんだん疲れてきました。
まだまだ、棺桶を担ぐための竹?木?とか、葬儀用のなんかとか、いろいろと仮説を考えたりしようとしています。
仮説の裏付けの資料を探して調べて遊んでみましたが、世の中は知らないことの方が圧倒的に多いなぁと実感することしきりです。

そもそもは「ごんぎつね」はフィクション!

そういえば、小学校国語って、フィクションとノンフィクションの違いって、体系的に教えているんだっけ?
と学習指導要領も眺めてみましたが、どうも見当たらず。

昔から、こどもは大人の予定調和や認知バイアスを超える存在だと、私は思っています。
平成生まれの小学生たちは、見事に昭和生まれの爺婆おっさんおばはん世代を驚かしてくれたのが、今回の一件だったと思います。

私の頭の中は、最近、毎日がセルフ「ごんぎつね」論争です。
研究者でも国語教育や文学教育の専門でもないのに、文科省や経産省の方々、小中学校の先生方や教育委員会の方々とディスカッションする機会にも、新美南吉記念館のみなさん、ホンドギツネの生態をご研究されている大学の研究者、ホンドギツネを撮影している写真家の方とも、運の良いことに繋がりを持たせていただきました。
そして、自主出版で絶版となった「やなべの歩み」(半田市立図書館で一部をん千円出してコピーした書籍)を、古書で落掌することもできました。
それが、7月30日。
なにかの不思議なご縁なのかな?とも。

「ごんぎつね」は日本を代表する「世代を超えて共通言語的に語れる教材」です。
Twitterでこれだけの(おそらく、ごんぎつね関連では過去最高のはず)さまざまな解釈や見解が出されるとは思ってもいませんでした。

今回は、国語教育のあり方、教科書素材の考え方、大学教育での国語教育のあり方、など、そもそもに門外漢なのですが、知りたい・言いたいことはたくさんあります。
総合学習化したり、GIGA端末活用と組み合わせたり、情報活用能力の強化にすら、「ごんぎつね」は教材として使えるのではないか?とも考えています。

経産省からは、無料でご利用いただける、「STEAM化ごんぎつね」が今春にカットオーバーされました。

そろそろこの時期、ごんぎつねの教材研究を始められる小4ご担当の先生もいらっしゃるのかもしれません。
先生方に使っていただきたいのが、経産省のSTEAMライブラリーです。

初級編は、実際にごんぎつねの舞台となった半田市岩滑でロケをしています。他には、ごんぎつねに登場するもの、ホンドギツネとはどういう生き物か、火縄銃、など、おそらくは教科書の挿絵だけでは説明できない、こどもがリアリティが持てないものを、映像化されています。
授業内でGIGA端末経由で映像をご覧いただき、授業に活用いただいたり、教材研究にご利用いただいても良いのかなとも思います。

次回、気が向いたら、本件と国語教育について、思うところをまとめたいなと。
はぁ、9000字超え。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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