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球団ヒストリー5.洗礼

たらいまわし

鹿児島ホワイトウェーブを、正式な社会人チームとして残そう。
そのために動き出したのは、あれよあれよと球団代表になった國本正樹さん。

ただ、その手続きは相当に困難なものだった。

都市対抗野球などを運営する日本野球連盟に問い合わせると
「九州の野球連盟に問い合わせを。」
そして九州地区野球連盟では
「県の野球連盟から申請してください。」とのこと。
ところが、社会人チームのない鹿児島には、県の野球連盟もない。
「ですので立ち上げてください」。

「立ち上げる!?」
おそらく驚き戸惑いながら、國本さんは「ではやり方を教えてください」と鹿児島県野球連盟を立ち上げ、理事長兼会長を務めることになった。連盟として動くために、印鑑を作り、規約を考え、事業計画を提出。
…このあたりで、「ん?なんかヤバいところに足を突っこんだかな?」とうすうす感じてはいたらしい。


それでもこのころまでは、「都市対抗野球に出られるんだ」とどちらかというとワクワクした気持ちのほうが大きかったと言います。

招かれざる客

ちょうど同時期、おとなり宮崎県でも社会人チームを立ち上げようという動きが。鹿児島と同様にやはり連盟をつくり理事長となっていた宮崎梅田学園の社長とともに、九州地区野球連盟理事長による面談へと赴いた。

「最初に、あれ?って思ったのはこのときでした。『野球界を盛り上げてくれてありがとう!』って歓迎されると思ってたのに…」

当時の九州地区野球連盟理事長は、のちに野球殿堂入りする福嶋一雄さん(下記参照)。
福嶋さんは開口一番

「君たちは本当にやるのかね?」

と言い放った。

「やるのは構わんが、やる以上は続けてもらわんと困るよ?できるの?」

鹿児島と宮崎で産声を上げる直前の理事長2人、この言葉に表情が固まったのが目に浮かんで、なんだか切なくなった。


この厳しい言葉は、当時の社会人野球界の背景から出たものだったのかも、と國本さんは語る。

当時は欽ちゃん球団に代表されるように、タレントさんが社会人チームを立ち上げるのが流行。軟式野球に比べて道具代はかさみ試合をする場所が限られるにも関わらず、チームが立ち上がっては消えるということを繰り返していた。

そんな中で、社会人野球という世界に自負心を持っていた福嶋さんが将来を危惧していたことは当然ともいえる。

そうそうたる顔ぶれ

こうして、鹿児島ホワイトウェーブが所属することになる鹿児島県野球連盟が2006年2月、日本野球連盟理事会にて承認。理事会の間、別室で待機していた、鹿児島県野球連盟理事長の國本さんと副理事長の丸山弘樹さん(『2.大盛況。そして勝利』参照)は、そのあとの懇親会から他県連盟の会長さん方と同席することとなった。

新加入の理事長である國本さんは、一番テーブル。主賓の席だ。
同じテーブルには、JR東日本やENEOSといった名だたる社会人野球チームを持つ企業の経営者の方々。

「…あぁ、こういう世界なんだ」。國本さんはこのときそう思ったそうだ。

こんなに大きな組織なんだ。

九州地区野球連盟理事長、福嶋一雄さんの言葉。
そして名だたる企業のトップに囲まれた懇親会。
このふたつの洗礼を受け、この先に待ち構える厳しい道のりを垣間見た…のだと思います。


※福嶋一雄さん
甲子園出場7回、45イニング連続無失点という不世出の記録を持つ。甲子園の土を最初に持ち帰った選手とされる。
甲子園、東京六大学野球、都市対抗野球のすべてで優勝経験を持つ伝説の野球人。
つい先日の2020年8月、89歳にて世を去られたそうです。

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