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球団ヒストリー73.竹山監督

チーム発足時からの大エース

2013年シーズンを終え、末廣昭博さんから監督を引き継いだ竹山徹さん。
その経緯についてはこちらをお読みいただきたい。

このヒストリーを書かせていただくようになり、あちこちに取材のお電話をするのだが、そのたび真っ先にお名前が出るのは常に竹山さんだ。
2005年、立ち上げ当初のメンバーとして入団し、途中何度か退団なさったそうだが毎回呼び戻され、このころには10年目を迎えていたはず。

そして私自身、ヒストリー執筆のおそらく一番早い段階から何度も何度も直接お話を聞かせていただいている。
書いた記事もマメにお読みくださり、「いいね!」やシェアはもちろん、筆者である私に対しても「いつもありがとうございます」と言ってくださる。
ドリームウェーブを、ご自身の分身のように感じておられることがひしひしと伝わってくる。

そう、まさにレジェンドでありドリームウェーブそのものという人。
満を持しての監督就任、と感じた選手もいたのではないだろうか。

「ミスと失敗は違う」

「ミスと失敗は違う」。
竹山監督はこのことを口酸っぱく言い続けた。

失敗はしてもいい。チャレンジするからこそ失敗する。失敗したくて失敗する人っていない。
でも、ミスは違う。それは準備不足。

投手ならば、どんな打者がいるのか、自分の調子が良くないときはどうするのか。
野手ならば、バッターボックスでどんな球を迎え打つのか、守備位置でどんな打球が飛んでくるのか。
日頃からあらゆる場面を想定して準備=練習する。

その大切さを繰り返した。

「練習してないヤツはグチグチ言う。練習してるヤツは言わないもん」と話す竹山さん。

だから、竹山さんはグチグチ言わない。
遠方に住みご家族もあるため、なかなか練習に合流できなかったときでも、ストイックに自主練に励み結果を出す。
選手スタッフからの信頼は相当に厚い。

「背中は見せてたと思います。でもこれ、自分で言うとカッコ悪いね」と笑う。

気配りの人

社会人野球の監督は大人相手だ。
少年野球や高校野球のように指示すれば「はい!」とすぐに駆け出す、いわば先生と生徒のような関係ではなく、一人前に会社で仕事をしお給料をいただいて自分の生活を自分で賄ったうえでのプレーヤーたち。

監督と言えど、そこには対個人のリスペクトを持っていないと選手はついてこないだろう。

その点、繊細で優しい竹山さんは選手一人ひとりのやり方を尊重し見守り続けた。限りないリスペクトがそこにはあった。

当時のキャプテン北迫太樹さんは竹山監督についてこう話す。
「めっちゃ気を遣う人です。選手の心を傷つけたくなくて、強く言うことはほとんどなかったですね」

そういえば、球団代表國本正樹さんもよく「竹山はとにかく優しい」とおっしゃっていた。

誰が見ていなくても一人練習を重ね、30代半ばを過ぎても主軸として君臨していた竹山さん。強くイニシアチブを取れば、選手たちはもう反論などできない。
気配りの人だからこそそういう選手たちの気持ちも敏感に感じ取り、指導が柔らかくなったのかも。

キャプテンとしては「だから竹山さんに一喝してほしいと思うことはありましたね。もう少しメリハリがあってもいいのかなって」。

その分は、キャプテンが引き締める。
バッテリーでもある竹山選手兼監督と北迫キャプテンは、阿吽の呼吸でチームをまとめていった。

一体感

ただ、そんな人だからこそ監督対選手という構図にはまったくならず、チームに一体感があった。

監督に媚びるような選手もおらず、忖度なくお互いの意見を言い合えるフラットで強い信頼関係ができていた。

チームは投手不足の時期でもあり、やはり主戦としてマウンドを任されるのは選手兼任である竹山監督。
どうしても”監督”に集中できないことはある。

「”監督”ではあったけど、”監督業”ができてたかというと違ったと思います。
やっぱり投げるし、もっと引いて広く見る”監督業”はできてなかった」。

私は、もし専任で監督ができたなら…と言いかけて、やめた。
きっと、竹山さんは投手としてマウンドに立ち続けたかったのだと思う。
けれども愛するドリームウェーブの窮地。
自分が立たねばこのチームが危機に陥ると感じ、監督の重責を引き受けてくださった。

そして選手たちも、その想いは感じていた。
だからこそ、「竹山監督を勝たせたい!」そんな機運は高まっていった。

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