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球団ヒストリー6.本当のスタート

2005年2月。
一夜限りのはずだった鹿児島ホワイトウェーブは、正式に社会人クラブチームとして日本野球連盟に登録。都市対抗野球大会に挑戦する資格を得た。

でもここからが本当のスタート。
厳しい現実が待ち構えていました。

欽ちゃん球団との対戦のときは20人いた選手たち。
彼らにもそれぞれの背景があり、そのまま続けることができたのは約半数だった。
10人程度では、仕事や家庭を持つ社会人としては試合もままならない。
再度CMを打って選手を募集。
なんとかスタート時には20人ほどの登録人数となりました。


初代キャプテンは、唯一の都市対抗野球大会出場経験者、宮田さん。
みんなが「このチームを残そう!」と盛り上がっていたあの夜、一人渋い顔で「なめんじゃねぇ」と厳しい言葉を投げていた、あの人だ。

「國本が頑張ってたから」
ホワイトウェーブをとにかくクラブチームとして試合のできる状態にしようと東奔西走していた、球団代表國本正樹さんの姿を意気に感じてのことだったようだ。
この宮田さんの言葉、私は電話でお聞きしながらしびれた。
きっと本人たちは言葉にしていない、男同士の絆。かっこいいな、なんて。


「うちのチームがラッキーだったのは、道具をすでに揃えてもらってたんだよね」
その國本さんは語る。

そう。硬式野球チームを立ち上げるのにネックになるのは、道具。
軟式野球と比べるとかなり値が張るのだが、テレビ局主催のイベントで立ち上がったホワイトウエーブには、それらが一式揃っていた。



イベントでは定岡正二さんであった監督は元広島カープの鵜狩道夫さんが、ヘッドコーチには元オリックスの斎藤巧さんが就任。
いずれもプロ野球経験者のそうそうたる布陣だ。


あとは、練習場所。

球場を抑えるにも、すでに予約がほとんどとれない時期。
確保できたのは、土日の夜の伊集院球場だった。
「とにかく毎週土日の夜に練習する、ということでスタートしよう」

運営側が煩雑な手続きや書類を全て引き受け、野球のできる環境を整えたことになる。


…でも。

本当のスタートからしばらくたったある週末の夜、國本さんの携帯が鳴った。
キャプテン宮田さんからだ。
「クニ、今日練習だったよな!?
 誰も来てねーぞ。俺帰るぞ」

土曜と日曜の夜、18:30からの練習には、なかなか人が集まらなかった。

チームが発足したことにより
大好きな野球が遠慮なくできること。
都市対抗野球を目指せること。
野球バカたちの気持ちは高ぶっていた…ことも事実だけれども、この時期はまだはっきりと『試合』という目標がない状態。
モチベーションの維持がだんだん難しくなっていったことも無理はない。

それに「明日からまた仕事かぁ」とただでさえテンションの下がる日曜の夜。毎週コツコツと練習に参加する選手は、ほんの一握りだった。

その日の夜も、最初は宮田さん一人。その後数人が集まったものの、ノックやバッティング練習をするような人数ではなく…ランニングで少し体をほぐして帰った、そうだ。


「選手が練習に来ない、というのは想定外だったよね」
國本さんの口調が、なんとも寂しげだった。

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