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咲くか、散るか by 吉田真澄

 東京タワーを後方に神谷町交差点を虎ノ門方向に向かう。

 ファミレスの一面ガラス張りの鏡のような窓に映ったわが身を、塔子は垣間見た。年齢を重ね、ふくよかになった体。しみもしわも増えた顔は半分マスクで隠されている。これはラッキー。そして白髪隠しに色を付けた頭髪。若かりし頃の華やかさは微塵もない。その姿を見てみないふりをして通り過ぎ、塔子は路地奥を覗き込む。

 塔子は数年ぶりに「Trattoria Tiger」を訪れようとしていた。店がまだあるのかネット検索もせずに、ある意味、賭けのような気持ちで出てきた。

「あった……」看板を見つけた塔子は、店があったという安堵と懐かしさを感じた。

「トラットリア タイガー」店主は八神虎一(やがみこいち)。

 こいち、という名前で寅年生まれなのだろうと当たりはつく。ゴルフ好きでタイガーウッズのファンであったことも、店名の由来になった。

 イタリア料理を提供するこの店は日本でいうところの居酒屋。高級なグレードのお店リストランテとは違い、トラットリアは大衆向けの雰囲気を持つ家庭的なレストランで比較的リーズナブル。ドレスコードもなく一人でも気軽に入れるお店の形態だ。

 店はあるけれど彼はいるのだろうか。私を覚えているだろうか。塔子は虎一がいるかどうかもわからない店の、ステンドグラスがはめ込まれた木製のドアを引いた。

 50歳を超えたら竹を割ったようにスパッと、つきのものが月に帰っていった。毎月の面倒がなくなったと強がりは言ってはみたが寂しさは隠せない。もう私は女としては終わったのだ、と塔子は新しい出会いを諦めた。恋愛はドラマの中だけでいい。

 持て余す暇な時間に韓流ドラマを観ては、ありえない恋愛模様に引き込まれ、時にはあまりのドロドロさにありえないと驚いたりする。恋愛ものの主人公はなぜかみな美人でスタイルがいい。そして必ずと言っていいほど、うらやましいくらいにふたりのイケメンに言い寄られ、サプライズな豪華プレゼントや甘ったるい言葉を贈られるのだ。たまには男に捨てられた女が丁寧にラッピングした鳥の死骸を玄関前に置いていくなんてシーンもあったりして。

 そんなドラマを一喜一憂して見るのが塔子の楽しみだった。そこに自分の感情を投影してその気になっていた。いままでは。

 嬉しくもない誕生日がどかどかとやってきて還暦を迎えた塔子は、月に帰って二度と戻ってこないもののことを考えた。 

 あの時なぜ終わったと諦めの心境になったのか。妊娠の可能性のある繁殖機能が閉鎖しただけではないか。

 とある国会議員の発言で問題になった「普通の結婚をして子供をつくる」という義務があるとかなんとか。その言いぐさの子孫繁栄ができなくなるからだろうか。人の考えは十人十色、身体能力や健康状態もそれぞれ異なる。離婚もし、こどもがいない私は異常だというのか。わからない。

 なぜ女として終わるのだろうか? なぜ終わったと言われるのだろうか? なぜいろんなことに無感情になるのか。塔子は腑に落ちない疑問を反復していた。

 本当は諦めたくはなかったのだ。

 女を捨ててはいけない。これではいけない、こんな毎日を過ごすための一生じゃない。

 あと十年もすれば記憶が薄れてくるだろう。その前にかつて好意を抱いていた人に会いたい。会ってみたい。そうだ、会いに行こう。ということで、塔子は介護施設のパートが休みの日に出かけることにした。

 塔子は、引きあけたドアから店内に入った。

 ひとりですけどいいですか、とウエイトレスに声をかけると快く、大丈夫ですよ、どうぞと奥の席へと案内された。ちょうど厨房が見える席だった。飛沫防止用のアクリル板の仕切り越しにキャンドルライトのランタンが置かれている。夜の営業時には本物のろうそくのように焔が揺らめくのだろう。

 厨房に虎一らしき姿は見えない。というか全員マスクにコック帽なのでうまく判別できなかった。

 虎一は自分よりひと回り上のはずだから72歳、のはず。もしかしたらもう引退したのかもしれないな。店はあるのに虎一がいない。期待半々。賭けは引き分けか、と塔子は思った。

 注文した本日のパスタランチ、ペスカトーレが運ばれてきたので、塔子はマスクをはずした。入念に塗ってきたファンデーションがマスクをも化粧していた。ベージュに汚れた面が見えないようにハンカチでくるみテーブルの隅に置き、フォークに巻き付けたパスタを口に入れた。うまい。

 休憩を終え更衣室から出てきたコックの不思議そうな眼差しが塔子に注がれた。記憶を手繰り、何かを思い出そうとしているのか視線が宙をさまよう。

「――とうこ、さん?」

 名前を呼ばれた塔子は声のする方を見た。コック帽から除く髪は銀髪になってはいるが、すらりと背が高く彫りの深い顔は間違いなく虎一だった。

「いらっしゃい。びっくりしたよ。塔子さんは変わらないね」

 変わってないわけがないのに。営業だ。お世辞だとわかっているのに。それでも虎一が自分を忘れずにいたことが嬉しかった。

「八神先生もお変わりなくお元気そうですね」

 30代の数年、塔子は虎一が講師を務める料理教室に通っていた。当時虎一は若手料理人として名を馳せ、料理の腕はもちろんのこと、その格好良さと彫りの深い顔立ちも話題だった。

 塔子は花嫁修業を言い分けに、虎一に会えるのが楽しみで教室に通い続けていた。塔子が、本当はこんな人と結婚したい、と虎一に惹かれていただけで何があったわけでもない。虎一には家庭があり、塔子も結婚を控えていたから。

 虎一が独立し自分の店をオープンすることとなり講師が変わったのを機に、塔子も教室を辞めたのだった。虎一ファンの教室仲間も数人辞め、一時、店はみんなのたまり場になっていた。

「時間が許すようならもう少し話しませんか」との虎一の提案。

 コロナ禍で、今はランチタイムしか営業していないという。

「はい」塔子は間髪入れずに返事をしてしまった。言った後で、物欲しそうだったのでは、と思ったが後の祭りだ。

「でも、時間余ってしまいますね」

 虎一は塔子に時間つぶしさせることを悪がっていた。

「買い物がしたかったのでその時間ならちょうどいいです」

 塔子は答えながら、たまにはデパートで洋服を見たりしよう。そうだ、化粧品売り場のテスターで化粧直しをするのもいいのではないかと考えた。

「よかった。仕込みが終わったらすぐ行きます」と虎一はホテルのバーを待ち合わせ場所にした。時短ではあるが営業しているという。それに、女性一人でも安心だからと。

 最上階のバーからは黄金色にライトアップされた東京タワーが見える。ここに来るときには後ろにあったのに、今は真正面に見えている。塔子の脳裏にふと、有頂天ホテル、と映画のタイトルが浮かんだ。映画の内容も結末もハッキリ覚えていないのに、ワクワクするタイトルだけは覚えていた。

 ずっと思い続けていた人にその想いを伝える、というのが塔子の目的だった。いい年をして何をそんなロマンチックなことを、と思われたっていい。ちっとも恥ずかしくない。

 なにせ老い先は短いのだからしたいことをする。生きることを楽しむのだと塔子は開き直った。

 カクテルをちびちび飲みながら、もしかして、コック帽をとったら真ん中が薄いザビエル頭かもとか、コックコートを脱いだらお腹がポッコリとか、塔子はこれから来る虎一を想像していた。スキー場や海で出会った人と街中で会うとイメージが違うことがよくある。センスがなくがっかりすることが多かった。

 しかし、現れた私服の虎一は、まったくそんなことはなく、頭全体を覆うロマンスグレーであり、鍛えられた体が洋服の下にある。ああ、年齢がいっても素敵な人は素敵なのだなあ、と塔子はわが身を恥じた。

 数十年ぶりの再会に、二人の会話は留まることがなかった。塔子の離婚のきっかけは食事の好みが合わないこと、から始まり、虎一は別居生活が長く妻は娘が暮らす海外に行ったきりだとか。共通の話題である教室のことだったり、その時のあの人どうしてるとか、お店の話とか、他愛のないことで盛り上がった。面白おかしく聞かせる虎一は会話上手で、その声は塔子の鼓膜に心地よく響いた。

「ずっと好きでした」

 お酒の力も借り勢いづいた塔子は思いのたけを告白した。

 ものごと、ここではふたりの気持ちの変化を表すであろう成り行きで、虎一はホテルの部屋をとった。

 部屋に入るなり抱き合った。軽くキスをされた。コロナ禍なのに大丈夫? なんてことは忘れていた。

 塔子の女としての機能が作動する。期待で胸が膨らみ、鼓動が高鳴っている。俗に好色と言われる、色事が好きなこと、とは違うなにか、そう、かつて成し遂げられなかった恋が芽生えた喜び。

 まだ女として見てもらえている。それが嬉しかった。まだ欲求があることが信じられなかった。

 虎一が裸になり、塔子が裸にされた。この体は明るいところでは見せたくないと恥じらい、塔子は電気を消した。

 若い頃のように激しいことはできないけれど、行為はなくても性的興奮はある。それは虎一も同じようだ。

 胸にしまっていた想い出や思いは、春を待つ花のように少しずつ芽吹き、いつか咲くこともあるのだ。

 あの日以来、塔子に驚くほどの変化が訪れた。 

 ウエストにくびれができ体全体が引き締まってきた。肌の艶も良くなり、日常生活にも張りが出て毎日が楽しくなった。虎一から受けたサプライズは、塔子に思わぬプレゼントを与えてくれた。

 この先は短いけれどまだ散りたくはない。まだまだ咲いていたいと思いながら生きていきたい、と塔子は改めて実感した。


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