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辞めるのか辞めさせられるのか、ああそれが問題だ by 夢野来人

タケルはそろそろ63歳のしがない会社員。若い頃から仕事運がないせいか転々と職業を変えていたが、いつかはサラリーマンを辞めて起業してやるんだと思い続けていた。
起業の方はともかく、サラリーマンを辞めてやるんだという思いは、あと2年で否が応でも叶ってしまう。そう、定年となるのだ。こちらから退職願を叩きつけてやる日を夢見ていたのだが、会社の方からあなたはもうお払い箱ですと定年退職を通知されてしまう日が来ようとは、それこそ夢にも思わなかったのである。

「俺もついに要らない人になるのか」

会社にとって必要な人かどうかは年齢で決まるものではないが、定年制というのは年齢で決まっているのは確かだ。
一見不合理な制度のようにも思えるが、実はこれがかなり実効性の高い制度なのである。
歳をとってくると、老化や知識が時代遅れとなり会社にとって必要な人というのは減ってくるものである。優秀な若者と一部の有益なお年寄りというのが会社が上手く回る構図だと思うが、歳をとってくると老害と呼ばれる人たちが増えてくるのである。
老害と呼ばれるお年寄りたちは、給与も一般的に優秀な若者の給与よりも高く、プライドも高く、会社の成長を妨げる割合も高い。
つまり、会社にとってはいない方が良い人たちなのだが、得てしてそういう人たちが会社の部長だったり課長だったりあるグループの責任者である場合が多い。
そんなお偉いさんたちをクビにすることは、たとえ社長であっても難しいのである。
ところが、定年制というのはそんな厄介なお年寄りたちを有無を言わさず退職に追い込むことができる数少ない優秀な制度なのである。
一方、早期退職という制度が最近流行っているようだが、これは良くない制度だ。
早期退職は希望者を募るのだが、応募してくるのは老害と呼ばれるような人たちではなくて、むしろ優秀な人たちなのである。
なぜそうなってしまうのかと言えば、優秀な人たちは今の会社を辞めてももっと条件の良い会社に入れる可能性が高いので、老害の多い会社に留まっている必要もなくさっさと上乗せされた退職金をもらって喜んで去っていく。
残るのは、この会社を辞めたらいくところがないんですという役立たずのお年寄りということになる。
つまり、退職制度は良い人も悪い人も年齢が来たら辞めていただくという良い制度で(必要な人はやめた後で雇用し直せば良いだけであるし、何より不必要な人たちを合法的に退職させることのできる唯一の手段なのだ)、同じようでも早期退職というは優秀な人から抜けていってしまうという悪い制度である。

タケルの会社にも早期退職の制度はあったが、タケルは希望しなかった。会社が辞めたい人は退職金を上乗せするからどうぞお辞めくださいという姿勢が気に入らなかったからである。どうせなら、会社が自分を必要としている時点で自分から退職願いを出したいと思っていたのだ。

そんなタケルが、63歳の誕生日に夢を見た。ずいぶん長い夢だったような気がする。夢の中では、タケルは定年まであと2年というところで自己都合の退職をしていた。長年の夢であった起業をしようと思ったからだ。
しかし、現実はそんなに甘いものではなく、タケルには特殊技能があるわけでもなく、たいした資格も持っていなかったのである。
これといって得意な趣味があるわけでもなく、強いて言えば若い頃ケーキ教室に通っていたことがあって、ケーキを作るのだけは上手かった。
なぜケーキ教室などに通っていたことがあるかと言えば、それはパティシエになるとかそんな理由ではなく、ただ単にケーキ教室は若い女性の生徒が多いからというだけの理由だ。
とは言え、誰よりも熱心にケーキ教室に通い続けたおかげで、ケーキを作ることだけはプロ並の腕前になっていた。

「そうだ。手作りのケーキを作ってネットで販売しよう」

タケルはさっそく材料を大量にかって来た。作ってみるとなかなか美味しい。

「これはいけるかもしれない。いや、しかし、もしも大量に注文が来たらどうしよう。俺一人で対応できるのか。少なくとも注文を受ける人、ケーキを作る人、箱詰めする人、ケーキの発送作業をする人ぐらいは必要だ。サイトの画面だって作らないといけないかもしれないし、評判になってテレビ出演の依頼がきたり、週刊誌からインタビューなども来るかもしれない。
しかし、一度売れ出してしまえば、それがどんどん拡散されて、俺は一気に時の人になってしまうかもしれないな。いやあ、早く準備を進めなくては」

そんなことを考えている間に、あっという間に2年が過ぎた。

今日はタケルの誕生日。机の上には2本のローソクが立てられたケーキが置いてある。その『6』と『5』という数字のローソクに火が灯された。それは皮肉にも激しく燃え上がった。

「やはり起業というのは難しいものだな」

タケルは返品の山となったケーキの前で、一人で誕生日を噛み締めていた。

「とらぬタヌキの皮算用とはこういうことか」

タケルの夢はキャンドルの炎とともに消えていった。

・・・・・・・

「ああ、嫌な夢を見た」

63歳になったばかりのタケルは目覚めた。

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