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David Harveyの講義メモ

資源を別の何かに変換すること。
根本的に異なる概念ブロックを取り、それらをこすり合わせて、革命的な火を起こす。
マルクスは、異なる伝統を取り入れ、一緒にし、こすり合わせ、完全に新しい知識の枠組みを作成している。
新しい知識システムを作成しようとする場合は、概念的な装置全体を再形成する必要がある。
マルクスが資本論で、こすり合わせる3つの概念的ブロックは、
①18世紀、19世紀初頭の政治経済学の概念的ブロック
⇒「剰余価値の理論」と呼ばれる3巻で深く批判している。
⇒マルクスが実際にそこで行っていたのは、脱構築。
②ドイツの古典的批判的哲学
⇒スピノザ、ライプニッツ、ヘーゲル、カント
③空想的社会主義
⇒マルクスは、空想的社会主義から科学的社会主義に変換させたかった。
マルクスの探求の方法は、マルクスの提示の方法とは異なる。
マルクスの探求の方法は、存在するすべてのもの、つまり起こっているすべてのものから始まる。
すべての人による現実の説明から始める。
そのすべての資料から始め、次にその資料で、いくつかの簡単な概念を探す。
見つけた現実から降りて、基本的な概念を探していく。
基本的な概念を発見したら、表面に戻って、何が起こっているかをみる。
表面の外観から初めて、深い概念を見つける。
マルクスが実際に行っていることは、玉ねぎの外側から初めて、玉ねぎの中心に行き、玉ねぎが成長する原因を見つけてから表面に戻る。
⇒概念の拡張。
マルクスは、商品のコンセプト、という観点から始めている。
マルクスは、お金から始めたかったが、不可能だと気づいた。
マルクスは、なぜ労働から始めなかったのか?
資本論第一巻は、資本主義の生産様式に関する一つの特定の視点に過ぎない。
⇒生産の観点からの、資本主義生産様式による分析であることを認識しなくてはならない。
資本論第二巻は、交換の視点を行う。
資本論第三巻は、危機の形成に関する資料。流通、利子、家賃、税金などの問題に関する資料を掲載している。
マルクスの弁証法では、完全に異なる分析の概念を見つける。
マルクスは、ヘーゲルからいくつかのアイデアを取り上げたが、
マルクスの弁証法は、ヘーゲルとは正反対。
マルクスは、資本主義の流動性とダイナミクスに、信じられないほどの感銘を受けている。
マルクスは、動きをみていることに気づく。
その動きとは、弁証法的動き。
マルクス自身の言葉で、マルクスを読まなければならない方法の一つは、マルクスが、弁証法によって意味することと格闘しようとすること。
問題は、マルクスがマルクスの弁証法について書いたことが一度もないこと。
資本論を注意深く読めば、マルクスの弁証法がどのように機能するかが分かる。
マルクスが行っていることは、信じられないほど直感的な弁証法の方法を回復し、それを機能させること。
マルクスは、労働について話さない。
マルクスは、労働のプロセスについて話す。
資本は問題ではない。
資本のプロセスが問題。
それが動いていない限り、価値は存在しない。
物事が止まると、価値がなくなり、システム全体が崩壊する。
資本主義は、永遠に道を進んでいるということ。
マルクスがやろうとしているのは、その動きを理解するのに役立つ概念的な装置を見つけること。
マルクスを理解する方法の一つは、マルクスの弁証法を理解すること。
マルクスは、資本主義の生産様式が普及している社会の富は、商品の膨大なコレクションとして現れるという。
したがって、分析は商品から始まる。
マルクスが現れるという表現をした時は、注意しなくてはならない。
現れるとは、何か他のことが起こっていることを意味する。
その何かを注意深く理解する必要がある。
また、マルクスが資本主義の生産様式に専念していることも注意しなくてはならない。
マルクスは、古代の生産様式や社会主義の生産様式、ハイブリットの生産様式にさえ関心がない。
私たちは商品を消費せずに生きることはできない。
私たちは生きる為に商品を買わなくてはならない。
それは単純な関係なので、それから始める。
商品は、人間の欲求やニーズを満たすものだとマルクスは言う。
マルクスは、人々が商品を買う理由にはあまり興味がない。
マルクスの興味は、単に誰かが商品を購入しているという事実だけ。
世界にはいくつの商品があるのか?
すべてが異なる品質で構成されていて、わたしたちはみな、異なる定量的尺度の観点からそれらを評価している。
最初の大きな概念⇒使用価値。
マルクスが非常に速く抽象化していることに注目しなくてはならない。
実験をする為にしなければならないことは、マルクスの呼ぶ抽象化する力を使わなければならない。
マルクスは、人間の欲求、ニーズ、欲望から抽象化している。
次に大きな概念⇒交換価値。
地理的、時間的に交換プロセスを見ると、市場交換の巨大な種類の交換プロセスがある。
交換の世界で私たちが目にするのは、一貫性のない交換価値であり、それらはいたるところにある。
マルクスは、交換価値は偶然で純粋に相対的なものであるように思われ、その結果、本質的な価値である商品に不可分に関連し、商品に固有の交換価値は、用語の矛盾に見える。
私たちは、この交換の世界で何かに気づいた。
原則として、すべてが他のすべてと交換可能であるということ。
あなたは常に何かと何かを交換してから、今持っているものを何かと交換する立場にある。
あなたは交換し続けることができる。
だから物事は動き続けることができる。
したがって、ある時点で他のすべての商品と交換することができる。
私が手に商品を持っている場合、それを分析して、それを交換可能にするその中の要素を見つけることはできない。
他のものと交換可能である商品を見ただけでは、交換可能である理由が分からない。
動いている商品を見なくてはならない。
それが動くにつれて、それは明らかに交換可能性、交換における通約可能性について何かを表現している。
すべてのものが交換で通約可能であることを意味している。
なぜそれらは通約可能なのか?
そして、その通約可能性は何で構成されているのか?どこから来たのか?
それはどのように定義されているのか?
商品はその何かの担い手。
しかし、それは商品の中にはない。
使用価値として、商品は何よりも品質が異なるが、交換価値としては、量だけが異なる可能性がある。
交換価値と使用価値が担っているのは、人間の労働の産物であるという品質。
それはどのような労働なのか?
それらは単に均質な人間の労働の固まった量であり、その支出の形態に関係なく消費される人間の労働力。
それらすべてに共通するこの社会的物質の結晶として、それらは価値、商品価値。
価値とは、商品交換の過程で受け継がれるもの。
原則としてすべての商品を相互に交換できるようにするのは、商品の隠された要素。
使用価値から抽象化した後、私たちは戻って交換価値をもう一度見る。
価値の必要な表現方法、または外観の形式として、交換価値が表示される。
すべての商品が通約可能である方法については、不思議なことがある。
それらが価値であるということ。
しかし価値は、今交換価値によって表される。
それで、交換価値、すなわちあなたが市場で製品のために実際にどれだけ得るかは、価値の表現であり、労働の表現である。
商品は、労働の産物だが、商品の労働を見ることができない。
しかし、それはその価格で表されているので、あなたはそれが何であるかを理解できる。
つまり必要に応じて、交換価値は、他の何かを表したもの。
マルクスは、価値とその表現の間のギャップの性質について話すのにかなりの時間を費やすつもり。
使用価値、または有用な記事は、抽象的な人間の労働がその中で客観化、または具現化されているという理由だけで価値がある。
オブジェクト化は、非常に重要な種類の概念。
プロセス、実際には労働プロセスは、物事の中で客体化される。
これは、マルクスで非常に重要になるだろうという考え。
あなたは物があり、それから労働プロセスがある。
プロセスと物事の関係は何か?
物事はプロセスの表現。
表現、つまり交換価値は、実際に見ることができるものだが、価値であるものを表している。
そして、価値は常に動いている。
そして、それは、プロセスが物事の中で客体化されることを意味する。
そして、それは、プロセスではなく、市場で販売されているもの。
しかし、そのプロセスがなければ、物事は存在しない。
したがって、プロセスを客体化する必要がある。
人間の労働は客体化され、商品と呼ばれるものの中で具体化される。
しかし、その物の内部では、量は、物に投入された労働の期間によって測定される。
時間、日などの規模。
時間、資本主義の生産様式はどのように時間を構成するのか?
時が金であるという事実に関係していることを理解しなくてはならない。
マルクスは、商品の世界の価値観に表れている社会の総労働力を本当に見ていると言う。
さて、この社会はどこに存在し、この商品の世界はどこに広がっているのか?
ここでは、特定の場所だけを見ているのではなく、実際には世界的な状況を見ている。
商品の世界、今の商品の世界はどこにあるのか?
マルクスは、ある意味で資本主義世界全体の社会を見ている。
それでマルクスは労働の概念を見ている。
あなたが望むなら、価値の尺度は、その全世界に対して判断される。
それは特定の場所と時間における特定の労働の特定の活動ではない。
価値は、私たちの裏庭で決定されたものではなく、商品の世界で決定されたもの。
価値は、社会的に必要な労働時間。
リカードは、労働時間の概念を価値として使用した。
マルクスは、社会的に必要な労働時間の概念を使用している。
社会的に必要な、とは何か?
それはどのように確立されているのか?
マルクスはここではそれを答えない。
あなたがキャピタルを通り抜ける途中であるとき、あなたはその答えの感覚を得るようになるだけ。
マルクスがここで行ったことは、単にリカードの概念的な装置をセットアップすること。
そこでマルクスは、ある意味でリカードは何かを逃したと言う。
社会的に必要な労働時間とは何か?
それはどのように決定されているか?
誰がそれを決定するか?
それが大きな問題。
誰がそしてどのように価値が確立されるのか?
つまり私たちは皆、自分たち自身の価値観を持っていると思うのが好きで、誰もが価値観について話し続けることが好き。
マルクスは言う、私たちが理解していないプロセスによって決定されている価値がある。
そしてそれは私たちの選択ではなく、私たちに起こっていること。
そしてそれがどのように起こっているかを開梱する必要がある。
あなたが誰であるか、そしてあなたがこの激動する価値観とすべての大渦の中でどこに立っているかを理解したいのなら、価値がどのように生み出されるか、そして社会的、環境的、その他すべての結果にどのような結果をもたらすかを理解すること。
社会的必要性が何であるかを理解する必要がある。
そして、私たちは社会的に必要なものを探すことに多くの時間を費やさなくてはならない。
価値は固定されてない。
マルクスは常に物事の流動性について話している。
価値は生産性によって変化する。
価値は第一に、テクノロジーの革命、生産性の革命に非常に敏感。
物品の価値の大きさを排他的に決定するのは、社会的に必要な労働量、またはその生産に社会的に必要な労働時間。
自然、環境の変化は、価値の革命を意味する。
実際私たちは、強力な力の影響を受ける価値を持っており、マルクスはここでそれらすべての明確な分類を試みていない。
マルクスは単に私たちに警告したいだけ。
私たちが価値と呼んでいるこのことは一定ではないということ。
それは永続的な、革命的変革の影響を受ける。
しかしその後、奇妙なことが起こる。
マルクスは突然言う、物は価値でなくても使用価値であると。
マルクスは使用価値を生み出すだけでなく、他者のための使用価値を生み出さなければならないと言う。
そして、効用の対象にならなければ価値はありえないと言う。
物が役に立たなければならなく、それに含まれる労働も同じく。
労働は、労働として数えられないので、価値を生み出さない。
マルクスは使用価値に関心がない、それらに興味がない。
マルクスはそれらから抽象化し、交換価値に到達し、それが自分に価値をもたらす。
人間の欲求、必要性を満たさず、誰かがそれを望まないならば、どんな種類の労働が何かに費やされたかは関係ない。
そして、それは価値がない。
したがって、価値は、誰かにとって、どこかでそれが使用価値であることに依存している。
あなたはそれを売ることができなければならない。
それでマルクスがしたことは、突然、使用価値を価値の概念に戻した。
ここに商品がある。
実際には、商品には二重の特徴がある。
使用価値がある。
交換価値もある。
交換価値は何かの表現。
それは何の表現か?
それは価値の表現。
しかし、それが使用価値に接続し直さない限り、価値は何の意味もない。
価値とは何か?
社会的に必要な労働時間。
何かの交換価値を実現したいのなら、それの使用価値を持つことはできない。
しかし、構造に注意されたい。
商品、二つの側面を持つ単一の概念。
商品を見るとき、実際にそれを半分に分けて、それが交換価値であり、それが使用価値であると言えるのか?
いいや、団結がある。
しかし、その団結の中には二つの側面がある。
その二つの側面により、価値と呼ばれるものを社会的に必要な労働時間として定義することができる。
これが商品の使用価値の担い手。
しかし、価値であるためには、それは有用でなければならない。
供給が多すぎると値が下がり、供給が少なすぎると値があがる。
したがって、使用価値と交換価値には、需要と供給の要素が関係している。
マルクスはそれに、それほど興味を持ってない。
マルクスが興味を持っているのは、需要と供給が平衡状態にあるときに何が起こるかということ。
それらが平衡状態にあるとき、マルクスは別の種類の分析をしなければならず、商品の価値は、その社会的必要性が何であれ、この社会的に必要な労働時間によって固定される。
商品価値は、社会的に必要な労働時間として構成されている。
ここで機能しているマルクスの弁証法について述べたい。
交換価値は、価値を生み出すと思うか?
交換価値は、使用価値を引き起こす、または使用価値は引き起こされると思うか?
これは因果関係のない分析。
使用価値について話さず、交換価値について話すことはできるか?
いいや、できない、使用価値について話すことなく、価値について話すことはできるか?いいや、できない。
言い換えれば、他のすべてについて話さずに、これらの概念のいずれかについて話すことはできない。
玉ねぎの概念的な装置を通してある種の仕事をしている。
それは、これらの概念の間の有機的な、一緒にぶら下がっている、一連の関係。

価値は常に動いていて、決して固定されておらず、常に変化していて、静的な概念ではなく動的な概念。
そして、客体化はそこにあるが、ここでも、客体化自体の意味は時間とともに場所によって変化する。


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