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霊の世界の摂理

こんにちは。カモミールです。

今週は考えることがいろいろあり、学びがたくさんありました。先程1つ記事を書き終えましたが、もう一つお話ししたいテーマがありますのでそれについてお話しさせていただけたらと思います。

それは、霊の世界の摂理、についてです。

このことを考えるにあたって次のみことばを見てみたいと思います。

ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、
妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
使徒の働き 5章1~5節

クリスチャンであればほとんどの方が見たことのあるストーリーだと思います。この部分は僕にとってとても大きな疑問でした。何故、アナニアとサッピラはキリストを受け入れ、罪赦されたはずなのにどうして神に裁かれることがあるのだろうかと。

このことについては、聖書に詳しい人であれば僕よりももっと詳しく説明できるかと思います。

旧約の時代にも神に裁かれた人は何人もいます。契約の箱を触ってしまったウザだったり、規定に反した炭火で香を炊いてしまったナダブとアビフです。神は愛の方なのにどうしてこのようなことをするのだろうか、と思ったのです。

このことに対し、妻と話し合っていた時、妻はこのように言っていました。この世では、「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)とあるように、一つ一つの行いにはそれぞれに報いがある。アナニヤとサッピラは例え、罪赦されて永遠の命をキリストによって得たものの、この世で代金を自分のためにとっておいて嘘をついたことは、その報いを得る必要があった。という説明でした。

確かにそれはなるほど!と思う部分もありましたが、完全に納得できることではありませんでした。私たちだって、献金をたまに少なく収めたりすることもあるのではないだろうか?嘘をつくことだってある。それはつまり、嘘をついたり、献金を少なく納めることで神に裁かれて殺されてしまうのだろうか?と思ったのです。

さらに突き詰めれば、そういった少しの嘘をつくことでそこまで裁かれなければならないのだろうか?ということです。そうであったなら、僕はちょっとでも生きながらえることは不可能なのではないか、とさえ思うのです。

また別の視点で捉えれば、アナニアとサッピラが嘘をついたことと、僕らが教会の献金で嘘をつくのは全然重さが違う、ということを別の方は言っていました。当時、キリスト者がどんどん生まれ始め、これからキリスト者の共同体がスタートしていこうとする中での嘘は重大な過ちだった。それはまさに、ウザやナダブとアビフが神の聖域を侵すことをしたのではないか、ということです。

妻が言っていたこと、またアナニアとサッピラが重大なことをしたということは理解できましたが、それでも、したことは一つの嘘。何故そこまでの裁きが下されなければならないのだろうか、と思ったのです。

そう考えている中で一つのことを見落としていることに気づきました。それは、霊の世界にも摂理があるのだということです。この世の摂理では、例えば、蛇口をひねれば水が出る、足を上げれば足の裏が地面から離れる、というように、その摂理に乗っ取って物事が動いています。この世では、嘘をつくことがそれほど大きな罪になったりするようなことにはならないと思うのです。

しかし、霊の世界では我々が知覚できない摂理がしっかりとそこにあるのではないのだろうか、と思ったのです。それは見えない摂理であって、私たちが普段意識しているものではないですが、しっかりとそこにあり、そして霊の世界では、こうすればこうなる、という摂理が存在するのではないかと思ったのです。

簡単な例を話せば、霊の状態が非常に悪い場所、人が近寄らない不気味な場所に立ち寄ることで、悪い霊の影響を受ける。というのはまさに、この世の摂理と同じように、霊の世界での摂理で、悪い霊に近づけば悪い霊の影響を受ける、と言うことなのではないかと思います。現に、人が立ち寄らない悪い場所に遊び半分で行き、原因不明の失聴を患ってしまった、と言う話もあるくらいです。

このことで思わされることは、私たちは本当に目に見える世界だけでなく、目に見えない世界に目を止める必要があるということだと思うのです。それは普段意識しなくても生きていけると思いますが、確実にそこにあるものです。目に見えないものを受け止める、また目に見えない霊の摂理を理解しようとするところに、大事なものが隠れていると思うのです。

しかし一方で、霊の世界の摂理を完全に理解することは非常に難しいのでしょう。

ああ……神の道はなんと極めがたいことでしょう。
ローマ人への手紙 11章33節

私たちに、どうしてアナニアとサッピラが裁かれたのか、正確に理解することはできないかもしれません。しかし、霊の世界ではしっかりとした摂理がそこにあり、はっきりとした理由がそこにあるのだと思います。

霊の世界の摂理の存在を知り、霊の世界に目を向けていきたいですね。

そうすれば、キリストのみわざがもっともっとリアルにはっきりと見えてくるのかもしれません。


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