頬粘膜がん 143日目 共感覚のはなし
頬粘膜癌、143日目。
血圧 93-72 mmHg
血糖 106 mg/dL (朝食前)
酸素 97 %
脈拍 71 拍/分
体温 36.4 ℃
体重 76.5 kg
火曜日の今日は祝日。ちなみに春分の日である。
今週末に退院ということが決まったわけだが、だからどうということがあるわけでは無い。特にそれに向けて医療的に準備があるかと言えばそんなことはない。まぁ逆に言えば準備ができたから退院しても良いという事である。
放射線治療の副作用で口内の炎症が結構激しくあり、通常はなかなか食事ができなくなってしまう方が多いらしい。その為、放射線治療後に改めて口から食べ物が食べられるようになるまでは退院できないケースがある。一度、食べられなくなると痛みがやわらいで行く過程でどこらへんで食べられるようになるかってのはなかなか厳しい話になってくるような気がする。
正直に言えば、僕も最後まで口から食事をとることができていたわけだけれど、痛くなかったかと言えばかなり痛い状況でも食べていたのである。舌にできるだけ触れないように吸い込んで飲み込んでみたいな、ほぼ丸呑みみたいな状況で取りあえず食べきるみたいな事はままあるわけである。もしも、途中で口からの摂取を休んでなんて事をしていたら、きっと口から食べる状態を維持することはできなかったのではないかと思う。これも、言ってみれば惰性みたいなもので昨日のつらさとほとんど変わらないならなんとか乗り切れるだろうみたいな事である。
昨日の食事時に痛みレベルが8だったとしたら、今日もほぼほぼ痛みレベルは8なのだから昨日との違いはない。同じなのだ。だけれども、一度休みを入れてリセットしてしまったら、痛みレベルはゼロになっているのかもしれない。その状態で8の食事を行えば、それは耐えがたい痛みとなって感じられるかも知れない。
そういう意味ではなんとかかんとか、ふんばって良かったと思う。日々、看護師さんは口内の状態を観察されている(ペンライトで口の中を確認している)わけだが、もう退院なのでいろいろ話を聞いていると、これぐらい舌がダメージ受けていると食べてる人はほとんどいないらしい。・・・・・・どんだけ鈍いんだろう、自分w まぁ、痛い事は間違いないので毎日食事時にそれが訪れるとなるとやっぱり気分的にめげてしまうものらしい。
僕は、痛みはなんとか乗り切ったわけだけど、出汁の味というかうどんとそうめんだけの主食がそろそろ限界だった。明日と明後日は、昼食は欠食にして食堂でなにか食べられるものを探すことにしているが、入院がまだ何週間も続くとすれば限界を超えしまって食べられなくなってしまう所だった。
完食はしているが、食事のトレイを目の前に軽い吐き気が実際にはある。これは抗がん剤の副作用云々という事ではなく、麺類主体で同じ味付けでの食事じたいに対する拒否反応が出始めているという事だろうと思う。いや、もしかしたら抗がん剤による副作用なのかもしれないがそれはわからない。
症状の聞き取りの際に、吐き気については”無い”と答えているが、入院が続くようなら吐き気があってこのままのメニューでは食べられなくなると白状しなければならない所だった。早めに栄養相談を入れて後半の食事内容についていろいろ相談し、麺食を含めいろいろ好みや食べられそうなものを中心に配慮した食事を用意して貰えていたのでここまでやってこられたという感じだ。本当に頭が下がる。
その上で、もう限界が近いという状況だったのだから痛みも含めて脱落していてもおかしくなかったと思う。運が良かった。
取りあえずは残り朝食を3回と夕食を2回。昼食については食堂でなんとかする。これをしのげばなんとかなる。ゴールは見えているのである。
子供の頃に食べた記憶がある。ブルボンのバームロール。懐かしいお菓子だ。
ご飯が、ちょっとしんどくなってきて、おやつに浮気気味であったりする。いざとなれば数日お菓子だけ食べて・・・・・・ってのができる世代ではないのが苦しい所ではあるが。
中身が個包装になっているので一気に食べられなくても大丈夫と思って買ってしまった。2本食べました。旨かったw(多分ね、甘さがいまいち良くわからんけれど)
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ここから先、全然がんとかの話でもなんでもない話なんだけれど、まぁいいか。
今日、ウォーキングしていてふと思ったことから、いろいろ考えていた事なんだけれど。
共感覚という言葉がある。知っている方もおられるかもしれないが、人の感覚の五感と言われるものが相互的に関連して感じられる能力といったらいいだろうか。たとえば、文字や数字に色を感じたり、味と同時にものの形が連想されたり、音に匂いを感じたりといろいろな共感覚が報告されているらしい。
で、その共感覚のことがふと思い出されたわけである。
なぜ急にそんな事になったのかと言うと、たまたまウォーキングに出る前に大江健三郎さんの事を考えていたからなんだろうと思う。大江健三郎さん、つい最近老衰でおなくなりになられている事はみなさんもご存じの通りだ。
ここ最近、時々ではあるけれどいろんな作家の方の事をあれこれ思い出したり考えたり作家という事ではなく”文章”というものについて考えたり(そんな大げさな事ではないんだけれど)する事があって、それと関連してたまたま大江健三郎さんの事を考えていたときに、その息子さんは今どうしておられるんだろうと思ったわけだ。確か、大江健三郎さんの息子さんは障害者だったのではないかと思う。僕の記憶だと、息子さんは作曲かなにかをされたりしたんじゃ無かったかと思う。障害があって、才能があって作曲をしたというニュースというかそういう事があって、大江さんが小説を書きながら息子さんの成長を見守っているというちょっと変わった作家さんだったような記憶だ。ちょっと自信ないけど調べ直してはいないんだけれど。
で、その障害があっていろいろコミュニケーションとか難しい息子さんなんじゃ無いかと思うわけだけれど、そういう人が作曲をするというのはどういう事なんだろうと思った訳だ。
僕は昔ちょっとバンドをやったりなんだりしていて、オリジナルの歌なんかも作った事もあったりするわけだけれど、僕が曲を作るというのはパズルを解くようなもので、歌詞なり最初のフレーズの音なりができたら、そこから関連した音の連なりを探していくみたいな作業なのだ。いろんな音の連なりを並べて自分でしっくりくるフレーズを探していくみたいな作業的なものだったりする。うまく伝えられないが。
で、そのパズルみたいなものっていうのは、次のフレーズでもいいし、全体的な構成でもいいんだけれど、そういうものはある種のルールにのっとって作られていくわけだ。(ルールにそってフレーズの連なりを探していくのでパズルみたいと表現しているんだけれど)
で、そういう僕のような俗なのは別として、大江さんの息子さんはそういう意味ではルール的ななにかにとらわれた思考をされていないんじゃないかと思うわけだ。(知的な障害みたいな事ではなかったかと記憶しているんだけれど違っているかもしれない)
文字であったり、文章的な何かみたいなバックボーンが強く発揮されていない場合、逆に知識や体系的な経験に基づかない作曲というのは、もしかしたら”コトバ”や”イロ”や”アジ”や”カタチ”と”オト”が共感覚的に結合して音楽が生まれるんじゃないかと思ったりしたわけだ。
僕たちが感じる朝日は、そのまま音に変換することはできない。”森の中の小さな泉に差し込む朝日の様子。”みたいなものが ”モリノナカ チイサナ イズミ アサヒ”というコトバと彼が想像する風景だったり風の音や森の音、草の匂いやコトバが有機的に結合して、音程と音調というオトの連なりが生まれたりしないだろうかと思ったのだ。
こういうオトが生まれる瞬間があるとするならば、それは素敵な音楽が生まれるのではないかなぁと思ったりしたんだけれど、どうなんだろう。
音楽を聴く時にも、ぜんぜん違う体験がそこにはあるのかもしれない。
それはどんな音楽体験なんだろうって思ったわけである。
僕たちが経験したことのない、新しい音楽体験がそこにはあるのかもしれないなぁと改めて思ったのだった。
共感覚がある人が、音楽体験するときの脳の働きをつぶさにモニタリングすることができたら、そういう新しい音楽体験が僕たち共感覚を持たない人間にも感じる事のできる音楽メディアが生まれたりしないかなぁとか、そんな事を考えながら今朝はウォーキングしていたよって話。
昔、小説もどきを書いていた時のコンセプトと同じだなぁと思ったり思わなかったり。そう思うと、人間というのは基本的な部分では多少年数が経ったとしても考える事はそんなに変わらないのだなぁと。
以前はこういうどうでもいいことなんかを、いろいろ考えたりしていたなぁと思い出した。同じような体験を今朝感じて、これはこれで面白い事だなぁと思ったのだ。
先日、小説家の羽田圭介さんが何かの番組の中で、書くこと自体の基本的な形はデビューした時のものとそんなに変わらない物だ的な事を言われていたのを思い出したり。
さぁ、全部食べている。
今日もいい1日であった。
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