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なっちに医療事故が起きた日のこと

 なっちは、実は3歳までアンジェルマン症候群とは診断がつきませんでした。

 成長発達が遅い。なんとなくおかしい、なんか変。でも気のせいかも、個人差かも。そう思いながらの手探りな子育てが3年続きました。

 その3年の間にどんなことが起こったかは、実はあまりよく覚えていません。とんでもなく大変な現実が目の前にあったのかもしれないけれども、なっちは可愛かったし兄のりゅうも可愛い盛り。夫とは協力体制ができていたし子育ては決して辛いわけじゃなかったんです。

 なのに、自律神経の失調って恐ろしい。

 私は、起立性の低血圧、低血圧性の胸痛、動悸、不整脈、不眠、胃痛、腸閉塞、次々と不快な症状に襲われました。精神的な要因で身体ってこんなに壊れるの!?というくらい体調を崩したりメンタルを調整しあぐねたり。(今思えば鬱症状ですよね。多分診断書も鬱だったのだと思います)私の両親とも喧嘩したり別居したり。仕事も休職させていただきました。自分のキャパシティに限界を感じ、どうしても逃げられないことだけに絞った生活をし、逃げられることからはぜんぶ逃げました。というか、見ないフリをしました。

 アンジェルマン症候群の娘との生活っていうだけでもそこそこサバイバルなのですが、私の場合、ちょっとしたオマケがありました。

 2000年ころ。時はミレニアム。そのミレニアムを挟んで3年程の記憶を奪うほどに私のメンタルを引っ掻き回す引き金になったかもしれない【オマケ】の話です。


 ■なっちは妊娠出産には特に大きな異常もなく、2902gというごく一般的な大きさで生まれました。生後間もなくのスクリーニング検査で引っかかるような病気もなく、後天的な重篤な病気も発症せず母乳もミルクも300mlも飲む驚異の飲みっぷりでスクスクと育っていきました。

 食べない飲まない、中耳炎や感染症で病気ばかりのお兄ちゃんの子育てがようやく一段落した頃だったので、同じ新生児とは思えない楽さでした。

 そのなっちも生後6ヶ月くらいの頃、風邪から気道感染症になって熱を出し、週末(金曜日)でもあるので念のため入院しとく?という軽い感じで近隣市の市民病院に入院をしました。入院中は点滴をしてもらい、定時には抗生剤も点滴ルートの側管から注射してもらい、みるみる元気になっていきます。

 ただ、乳幼児の入院というのは母子ともにベッドに缶詰になります。元気になればうろちょろしちゃう幼児の入院と違いおすわりもできない乳児の入院ですから、母にもそんなに仕事はなく、ただひたすら授乳やおむつ交換、そして退屈と闘う週末。熱はあってもよく食べますから治りも早く、翌週の月曜日には『今日から抗生剤を切って明日まで熱が出なかったら退院ね』と言われていました。

 そうして抗生剤を切って翌日の火曜日の朝。熱はない、このままだったら退院だ!と思っていたその朝。6時の検温の時に、ナースがなっちの点滴の側管から何かを注入したのです。

 添い寝の私は、まだまどろんでいました。でも、何かを入れたなぁ、なんだろう?くらいには思っていました。まさかこの後とんでもないことになるとも知らずに。

 6時20分ごろ、授乳したり自分の顔を洗ったりしてふと点滴ポンプを見たら、ポンプが作動していないことに気づき、急いでナースコールしました。さっきのナースが何かを側管から入れた後、ポンプを再開し忘れている初歩的なミスです。担当の若いナースは慌ててやってきました。その時私ははじめて

『さっき、何入れたの?抗生剤は止まってるはずですよね?』

 と問いかけました。すると、そのナースは顔色を変えて、点滴を全て外してなっちを自由の身にして去っていってしまいました。

 それから11:45に主治医とその上司の医師に、家族全員が呼ばれて話を聞かされるまで、何が起こったか私たちには全く知らされませんでした。

 恐ろしいことに、6時にナースが注入したのはアスベリンなどの内服用のシロップ剤だったのです。口の中に入れようと注射器で持ってきていたものを点滴の側管に入れたのでした。

 昔はこういう事故がよく起こっていました。人為的なミスです。医療界はそんなあってはならない過ちを繰り返しながら、今は物理的に点滴の側管に非滅菌のシリンジが接続できないようになっていたり、バーコードで管理されて患者間違い薬剤間違いがないように工夫されたりしてヒューマンエラーが起きにくくなっています。そう思えばこの事故も今の医療のお役には立っているのかもしれません。

 幸い、その間なんの症状もありませんでしたが、もちろん退院は延期となり、点滴はもとより抗生剤も再開(だって、血管内に不潔異物混入ですからね)、心電図モニターがつき、レントゲンやCT、脳波などの検査、緊急に対応できる部屋への部屋移動と慌ただしい時間を過ごしました。

 数日後、この事故による健康被害については問題はないということになって退院しました。謝罪もあって、ちゃんとフォローもするとのこと。いろいろと病院幹部の説明や体制については思うところもありましたが、病院としても当時としては精一杯の誠意は見せてくれたのかもしれません。


 ■しかし、その後のフォローで月に一度ずつ通院を重ねているうちについに【精神発達遅滞】という診断が下りることになります。なっちの運動発達は首の座りくらいまでは普通でしたが、その後とても遅れ始めます。寝返りしない、お座りしない、ハイハイしない、立たない、1歳過ぎても歩かない、発語もない、指さしもない。でも自閉症のような症状はなく、目も合う、よく笑う。他に疾患らしい症状はない。てんかんもこの頃はまだありませんでした。

 病院としてはいつも、『この遅れはあの事故のせいではない』と折に触れて主張するわけです。もちろんその時点で炎症も血管の詰まりも証明されていないのですからそのせいなどあるはずもないと今ならわかります。でも、医師たちの責任逃れの発言が聞かれるたびに私の気持ちは乱れました。

 『じゃあ、この遅れは何!?』と。

 大切な我が子に異常が起こっている。それは何故なのか?理由が知りたい。親としては当然の感情です。でも、専門職は事故の後遺症ではないと否定はするけど答えはくれない。

 そのうち、私は、その疑問の答えを自分に向けてしまいました。

 『あの時私が、あのナースの手を振り払っていたら・・・』

 私はナースで、あの日あの朝側管から何かが入ることなどあるはずないとわかっていたのに、若いナースの手を払い除けることができなかった。そのせいで、今の医学ではわからないような微小な異常を娘の脳に起こしてしまって娘の成長発達が遅れていると。

 障害児や病児の親は、自分にその責任があるなしということとは全く関係なく、ほぼ例外無く自責の念を抱くと言われています。こんな病気の子に産んでしまって、こんなに辛い思いをさせて、こんな人生を歩ませてしまって、と。

 私の自責の念もその一種ですけど、ちょっと方向性が違ってしまっていました。そしてそれを否定してくれる人たちの中に、『自分たちの保身』を考える人たちがいて、純粋に私に寄り添い不安を取り除こうとしてくれた専門職ではないというおまけ付きだったのです。


 ■かくして私は、その半年後にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)というありがたくない診断を頂戴し、心療内科に通院することになります。あの朝のことは衝撃的すぎて何も覚えていないはずなのに、事故が起こったあの日の朝、6人部屋の病室の窓にはブラインドがあって、その隙間から朝日が差し込んできていたことは脳裏に焼き付いています。ブラインドから朝日が差し込んでくる風景は、その後数年間見ることができませんでした。それどころか、こんなふうに文字にすることもできなかったと思います。人の心って、脳って、嫌になるほど神秘的で謎だらけで精巧にできていて、こんなふうに人を苦しめるんだって知りました。そのことを語れるようになった今、少しでもこの事柄を紡いでいくことには何か意味があると思うようにもなりました。

 なっちの祖父母はもとより、ご近所さんや職場の方の理解や協力もいただき、逃げられることからはすべて逃げて必要最小限の生活を送って約二年経ちました。その間は前向きなことは何一つできていません。ただ日々をこなすだけ。それ以前に記述できるほど覚えてもいません。

 なっちが3歳になった頃、ようやく少し気持ちが前に向きました。

 『先生、この子の病気、何?ちゃんと大きい病院紹介してください』

 その頃、事故や発達のフォローでなっちを診てくれていた医師は、中堅の女医さんでした。一生懸命に話を聞いてくださいましたし決して嫌いでもありませんでした。でも、精神的に不安定極まりない母親に不毛な疑問を投げられてばかりでいい加減疲れていたと思います。この当時の担当医がなぜさっさと大きい病院で検査してもらえと言わなかったのかと私は疑問に思っていました。今思えば県内の専門病院に医療事故の件を晒さなければならないから躊躇されていたのかと思います。それでも家族の希望には沿わないわけにもいかず、やっと重い腰を上げて県立こども病院の小児神経科を紹介してくれました。


 ■そして、県立こども病院小児神経科を受診。S医師。受診当日に様々な問診をし、なっちを立たせてみて歩かせてみて(なっちは2歳半でヨチヨチバランス悪く歩き始めました)、それからおもむろに分厚い医学書のとあるページを開いて、

 『アンジェルマン症候群じゃないかなぁ?』

 と。

 『は?なんですか、それ!?』

 紹介はしてもらったものの、原因不明の知的障害でしょ?病名なんてわかるはずもない、くらいに期待薄だった私たち親は鳩が豆鉄砲を喰らったようになりました。

 その分厚い本の、S医師が見せてくれたページにはアンジェルマン症候群の子供さんの写真が載っており、症状や特徴が詳しく書かれていました。

 『あ、はい、これです、間違いないです!!』

 くらいの衝撃でした。あっけないくらい。

 もちろん確定診断のためには、その日に採血してFISH法という方法で染色体を染めて15番染色体のアンジェルマン領域が欠失していることを確認する検査をし、約1週間後に結果が出ると言われたのですが、帰宅する車の中で夫と二人確信に近いものがありました。

 そしてその1週間後、アンジェルマン症候群と診断されたのです。

 アンジェルマン症候群は15番染色体の一部欠失もしくは不活という結構重度な先天性の症候群で、知的にも身体的にも重度な障害です。確定診断を受けて『そうだったんだ』と納得するには一般的には少し時間が必要でしょう。

 でも、私にとっては、この告知の日はショックな日ではありませんでした。

 娘に起こっていることがわかった日。

 私のせいではないと証明していただいた日、です。

 やっと前に向かって歩き始めた日だったのです。


 もっとも、もしかしたら発達の遅れは個人差でそのうちみんなに追いついてくるかもしれないと淡い期待を抱いていた夫にとっては『個人差なんかじゃなくてかなり重度な障害であること』を告知された日だった訳で、私と入れ違いにしばらく落ち込みが激しかったようでしたが・・・。


 ■そんなわけで、人生で1番の枷が外れた私は少しずつ回復し、少しずつ前向きに育児ができるようになっていきました。

 私自身も若くて世間知らずで遠慮の塊で何をどう主張していいかわからなかった頃の話です。ああしていればよかった、こうしていれば・・・と反省や後悔でいっぱいです。

 でも、今ひとつ言えることは、【医療従事者が保身しなければならない医療事故のような事態が起きたら、たとえその後の医療的フォローが必要なのだとしても、そのフォローごと引き受けてくれる別の病院に変えることも時には肝要】ということです。病院を変えたって大学病院医局系の医師の繋がりはあるかもしれませんが、自分の病院のせいではない事故をかばい保身する必要はありません。事故に関係のないスタッフが新たなお付き合いをしてくださるでしょう。こういう事態になり、専門職が本当の意味で患児や母親に寄り添うことができず、信頼関係を築けないくらいだったら…。

 そう思ったりするのです、今でも。

 この日を手に入れるまでの3年間、今思えば長かったな・・・って思います。

 

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