「自殺」という特権的行為

 一度、恋人に本気で腹を立てたことがある。

数か月か数年、もうそれさえ忘れてしまったが、それくらい前に流行った漫画のキャラクターと「同じタイミングで私も死んじゃおうかな」とSNSで呟いた。誰かに心配してほしいわけでもなんでもなく、ぽろりとこぼれた言葉だった。

「死にたい」と、思うことはある。一度も思ったことがない人なんて、いないのではないだろうか。

家族を一人亡くして、自分の生きる意味をまるごと全部失ったような気がした。眠れない日が続いて、一人になると涙が出る。1時間半も乗らなくてはならない電車の中で声を押し殺しながら泣いていた。終点の2駅前で降りるまでに、涙を止めなくてはと焦る。終点に近づくにつれて人はどんどん減っていくことだけが救いだった。

私のこぼした言葉を聞いて(厳密に言えば、「読んで」であるが)、恋人は、「死ぬなんて簡単に言っちゃだめだよ」と叱ってきた。そのときの恋人の感情は、怒りだったのか、苛立ちだったのか、あきれだったのか、悲しみだったのか、読み取れなかったけど。

今考えると、私は怒っていたのだと思う。簡単に「生きろ」という恋人に。家族が皆そろっていて恵まれた人に、世界で一番大切な人を亡くしたこともない人に、当然のように生きることを要求されることが悔しくて、許せなかった。

死ぬのは、私の自由だ。「自殺は特権的行為である」と、昔何かの本で読んだ。しがらみが多すぎて自由に生きられない子の社会で、死ぬことだけが完全に自由なのだと思う。

そう思いながらも、必死に生きようとしている自分がいて恥ずかしい。幸せに生きて、あわよくば家庭を築いて子供なんかも欲しいな、なんて考えている自分がいるのだ。今の恋人と結婚出来たらいいな、なんて思っているから、私の「死にたい願望」は口に出せなかった。別れを切り出されたりなんかしたら、それこそ「生きてゆけない」から。

私の死にたがりは、単なるパフォーマンスなのか、自分でもよくわからない。死にたい死にたいと、心の表面でだけ思っていて、本当は必死に長生きしようとしているのかもしれない。でもせめて、次こそは大切な人よりも早く死にたいのだ。「楽しく生きようよ」と能天気な恋人に怒りながら、どうかこの人より早く死ねますようにと、祈り続けている。



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