文通相手と雨の記憶
今日は朝から静かに雨が降り続けている。
絹の糸のような雨の音を聞きながら、僕はあの日のことを思い出していた。
13歳のころ。男子校に通っていた僕は、ある女性と文通をしていた。
文通相手は地元では少し名の知れたお嬢様学校に通う、同い年の女の子。月に一度くらいのペースで、彼女からかわいらしい封筒に入った手紙が届いた。お互いに男子校・女子校で、そこそこ裕福な家に生まれ、まだ恋を知らなかった。
文のやりとりを始めて5回目に、僕は相手に何も了承を得ずいきなり自分の写真を送った。えいやと写真を一枚封筒に放り込んだのだ。地元の駅ビルの文具店で汗だくになって一生懸命探した封筒だ。
それから一ヶ月のあいだ、僕は自分の自意識と戦う羽目になった。なぜあんなものを送ったのか。ルール違反じゃなかったのか。平和な国の静かな片田舎の、海沿いの小さな町で幸せに暮らすだろう彼女のささやかな人生の水面に木の葉を落としたことになりはしないか。その波紋が彼女の水辺を濡らしてしまいはしないだろうか。
僕の心配は杞憂に終わり、翌月には彼女からきた封筒の中に写真が入っていた。晴れた秋の日の、陽の光を眩しがった彼女の写真だ。雪のように白い肌は透明で、血脈は透過して僕にも見えるようだった。細い髪を風にわずかに揺らせている彼女は、文句なしに美しかった。
美少女と文通をしている。こんなに僕を慰めた事実があっただろうか。思春期に自分のレーゾン・デートゥル(存在理由)に悩まされ、受験戦争を勝ち抜いた微かなプライドが進学校の秀才たちにこなごなに砕かれ、意思とは無関係に押し寄せる性の目覚めに戸惑っていた僕は、ことあるごとに彼女の写真を見た。机の引き出しをあけるとすぐに見えるところに入れておき、学校から帰ってくるとその写真を見た。写真の中の彼女は、苦しい時には微笑んだし、嬉しい時には一緒に喜んでくれた。まるで、ではなく、本当に微笑みかけてくれるように感じたものだ。
人間の欲は尽きぬ。僕は今度は彼女に会いたくなった。どうやったら会えるんだろう。僕はいきおい手紙にしたためた。
「一度お目にかかりたく思います。ていうか、会おうよ!」
そして僕はまた、悶々とした一ヶ月を過ごす羽目になった。返事は暫く来なかった。学校に通いながら、絶望的な気持ちで待った。とにかく待った。
やがて二ヶ月の間をおいて、返事の手紙が来た。
「こんど私の学校の文化祭があります。そこにいらしてください」
快哉を叫んだ私は、数週間後のその文化祭に喜び勇んで一人で行った。そして、手紙に書かれた「1-B」教室におもむき彼女を探した。心臓が内側からばたんばたんと僕の胸を打ち付けて、吐きそうだった。しかし彼女は幾ら探してもいなかった。
どうしよう。
迷った僕は、その教室の研究テーマ(地球温暖化だった)に強く興味がある風を装って、何べんもその教室の中を歩き回った。
教室の受付をしているのは姿勢のいいそばかすのショートカットの子だった。僕は、ぎゅっと一度左手を握りしめてからその女の子に彼女がいるか尋ねた。交代中で不在、とのことだったので、この校舎の玄関で待っていると伝えてくださいと言った。
僕は顔を真っ赤にして人生初の交渉を終えると、飛び出るように教室から出た。廊下を通る三人組の男子中学生がにやにやとしていて、僕のこの一部始終をずっと見ていたのではないかと思った。が、勘違いでそのまま通り過ぎた。
校舎を出て下駄箱を通り出口を出る。秋の陽光が暖かく包み込む。
しばらくすると彼女はやってきた。まっすぐとこっちを見ながら、とても真剣な顔をして。
「こんにちは」
「こんにちは」
僕らは照れていたので、言葉少なに二人並んで校内を歩いた。彼女は友人とすれ違うたびに、恥ずかしそうに微笑んだ。ああ、この微笑みだ。彼女の細い髪の毛が、風にあおられ僕の顔にかかった。
僕らは色んな話をした。僕が祖父と行った海水浴でくらげが出ただとか、彼女の中学ではマフラーが禁止らしいだとか、そんな当たり障りのない話だ。歩きながら僕は手をつないでみたいとか、髪のにおいを嗅いでみたいとか、考えていた。彼女の白いすねを見るにつけ、性の萌芽を押し殺すことで精一杯だった。僕は彼女に指一本触れなかった。
5時になり僕は学校から出なければならなかった。彼女は校門の近くまで送ってくれた。はにかんで微笑み、「またお手紙くださいね」といって手を振った。それが彼女との、最初で最後の邂逅だった。
僕は彼女にせっせと手紙を書いた。彼女は少しずつ返事を遅らせていった。僕の返事から三ヶ月くらい経ったある日に、毎日覗いたポストに茶色の封筒をみつけた。たポストから取り出したその場で封筒をちぎって開けた。
「病気になってしまいました。お母さんも病気です」
便箋に、静かに雨が降り字をにじませた。
それきり彼女から返事が来ることはなかった。
そんな20年前の、雨の思い出。