主体性とそれを嫌う体質


最近音楽の根本的なお話や日本人の感性について色々調べていて
その中で表現に対して何を主として表現するのかという話を聞いてふと思い当たるところがあったのでメモ書きしようと思いました。
なので「こんな人もいるんだ」ぐらいの目線で読んで頂けたらと思います。

・はじめに


自分は今音楽家として曲を書いたり効果音を作ったりしてますが、未だに苦手なのが「主体性を持たせる事」です。
簡単に言うとメロディや歌を入れる形が苦手です。
仕方なく入れるかぐらいの気持ちで向き合ってた時代もあるぐらいです(

ある意味音楽家として致命的ですが、それが不要なジャンルや界隈であればそこまで問題はなく、一応ある程度メロディを補えるように対策もしてます。

今回はそんな「主体性を持たせる事が苦手」という傾向が、実は子供の頃からそうだったと気づいたのをいくつか書きます。


・幼い頃から出てた「主体性のある表現を嫌う」

自分の昔話になりますが、子供の頃はゲームが大好きでしたが
絵を描くのもその次ぐらいに好きでした。

よく描いてたのは大きく分けてこの2つ。
・ゲームや漫画、アニメのキャラクター
・目の前の物、風景

この2点に分けた理由もありまして、実は描く時に意識してた点が大きく違いました。

前者のキャラクター等を描いていた時はデザインの仕組みや描き方を意識してました。
どうして模写してもブサイクになるのかな…あぁ、目の位置と髪の生え際が離れてるからだ!とか考えながら描いてました。

なので模写することがほとんで、そのキャラクターを用いた二次創作はほぼしてませんでした。模写をせずにキャラクターを描いたとしても、例えばコミックの表紙の絵やキャラクター紹介の絵を再現してました。

二次創作をしなかった理由は「オリジナルが完成してるのに別の形は不要」と思ってたからです。
完成形があるなら別にそれで良い、それを改変したりオリジナル化しようと考えませんでした。

後者の風景や見たままの物を描くというのも模写と言えますが、大きな違いとして完璧に再現しようとしてませんでした。
時間経過や見る角度で表情が変わるのを面白いと感じ、それらを混ぜ合わせたらどんな表現になるかを試すように描いてた気がします。

こう見比べると描く楽しさはそれぞれ違っていて、後者の方が楽しんで描いていたことを色濃く思い出せます。


こんな感性で小学校に入学して以降、絵を描く授業の中で様々な事がありました。どれも可愛げのない子供の行動だと思います(笑)。
その内容は共通して「主体性が無い=無意味」と評する考え方に納得がいかなかったからでした。


・先生に反抗1「どうして主役が必要なの?」

小学校の頃、絵を描く授業はもちろん好きでした。音楽より好きだったかもしれません(笑)
そんな授業の中で横長の紙に絵を描く授業がありました。特に制限は無く自由に作る課題でした。自分はキャラクターやファンタジーな世界を描こうとは思わなかったので、こんな風景(世界)の場所が良いなと草原と植物とそこに生息する生き物をイメージで描きました。

ところがコレが先生に不評で「主役、キャラクターがいない」と言われたんです。主役がいるんですか?と聞いたところ「主役が無いと意味がない、評価できない」と言われたんですね。もうパニックです(笑)

半ばイライラしながら聞きました。「ぼくは風景を描いたんです。風景に主役はいらないと思います。」
先生は答えました。「いいから主役を描いて。その地面の花でもいいから。」
この返答に子供ながら怒りました。誰だって理由も意味も分からない事を強要されたら怒ると思います。

ただし評価もされず意味がないと太鼓判を押されるのも嫌だったので、渋々構成を変えて中央ら辺にそれっぽく大きめに書き足したしました。
結果評価は貰えましたが作品に対しては不満の塊で何も嬉しく感じられず、もはや作品とも思えませんでした。それは言われたままに改変して産まれた意味のないク◯だと今も思ってます。


・先生に反抗2「金次郎は金次郎」

次に反抗したのは写生会でした。学校施設内の物、風景を自由に描きましょうという内容です。察しのいい人は気づいたかもしれませんがこの時も風景を描きました。が、最初は違いました。

初めは先生のオススメで提示された二宮金次郎像を描いてました。全身が入る形で模写を進めていく中で、ある程度ラフが見えてきた所で思ってしまったんです。「すごく面白くない」と。
模写する事自体は嫌いではないんです。ただ面白くないと感じる理由が複数ありました。

・周りの複数の生徒も同じ像を描いている(別に自分が描く理由は無かった
・作品として完成されたものを再度描くことに価値を感じない
・オリジナルを模写した作品で評価されても何も嬉しくない などなど

捻くれてたのかもしれません(

そこで別のものを描こうとして全部消しゴムで消してたら先生に止められました。「そこまで出来てるのに勿体ない」「今から描き直すのは大変だよ」「みんなも描いてるよ」と。何が勿体ないのか分かりませんでした。皆も描いてるなら尚更自分が描く必要性は無いだろうと。そんなに金次郎増やしたいんですかと(

その後描く場所を決めました。場所は校舎裏の工事現場。新しく増設していく作業を上の階から見下ろした視点で描きました。この時先生に言われたのが「どうしてこれを描こうとしてるのか分からない」「象とか設置物の方が学生らしくて主体性がある」の二言。じゃあそれは他の学生がしてるのでいいじゃないですかと思いながら描き進めました。

余談ですが結果それが入賞しましたが、その先生からの評価がコロっと変わったの見て、少年ながら信用できない大人がいるとその時認識しました。

※同様に中学でも反抗する出来事がありましたが内容は似てるので割愛します。


・同じ表現なら音楽も…?

ここまで絵の表現だけで色々ぶつかったなと思いますが、音楽も同じく表現をする術です。
音楽に関しても同じぐらいぶつかった記憶はありますが、絵以上に自分の思う音楽の形を自由に残せるおかげでストレス無く続けられてます。これでボーカルソングをバンバン描く立場だったら発狂してたかもしれませんね…


ではそんな音楽は学生の頃どうだったのかと言うと、よく聞いていた音楽はインスト、BGMが多かったんです。楽器編成だけの音楽や音数の少ないテクノ、アンビエント、あとゲームのサントラとかですね。

僕は絵も音楽も「風景を感じるものが好き」「主体性が薄い作品を楽しむ」傾向があります。
この「主体性が薄い作品を楽しむ」について書き足すと、自分なりに楽しく聴ける余白(遊び)があるからです。
その音楽を聴いてイメージを膨らませて、いろんなシーンをイメージしたり自分の好きなままに想像を膨らませるのが好きなんです。

これがポップスの場合だとすごく邪魔に感じてしまうんです。例えば

・気を引くような展開
・ストーリーや考え方を決める歌詞
・世界観が確定するメロディ など

だから歌モノを聴いてもカラオケ版をよく聴いてました。このベースがカッコいいとか思いながら(笑)。学生時代は曲の楽しみ方を制限されるようで楽しみ方がよく分からなかったんです。
今はポップスはそこも計算して作られた作品であると認識してるので全部を卑下してるわけではないです。

単純に自分の楽しみたい形と合う事が少ないと言いたいだけです。


・既存の真似を褒められても嬉しくない

音楽の授業では皆お馴染みのリコーダーのテストがありましたが、これも同様に既存の作品を譜面通り演奏するだけだったので面白いとは思ってませんでした。どちらかと言うと「あの曲はこういう譜面だったのか」と探ったり調べる方が楽しいし好きでした。あとは変な音の出し方あるかなと模索してみたり(笑)

また音楽といえば身近な娯楽でカラオケがあります。これも同様で、有名な曲でもメジャーな曲でも歌いたいと思わないです。「自分が歌う意味はない」と思ってしまうので全っ然カラオケに行かないです。

何故なら既存曲は「既に完成された作品」だから。絵の時と同様真似たり二次創作的な所で評価されても嬉しくないからです。


・アレンジは別腹

大きく世界観やイメージが変わる楽曲のアレンジは好物です。ロックアレンジとか〜ReMixとか。これらは大きく違う世界観がまた現れるのを新鮮に感じますし、違う一面が垣間見えるような感覚で聴いてて楽しいんですよ。

ただ自分がアレンジする時は「評価されたい」よりも「とんでも整形したい」と言う気持ちの方が強いです(笑)


・主体の必要性

最後に「主体性の有無」を書いてきて、今自分が思う「主体の必要性」をまとめると、それは「共有する為」です。共通の認識を持つ事、同じメロディや歌詞を共有する楽しさがポップスの大きな一面だと思ってます。

また、主体は作品の世界観をリードしてくれる存在でもあります。一緒に歌うことの楽しさはきっとこういう所からも来てるんだろう。ただ自分は世界観をリードすること(主体を用いること)に魅力を強く感じない。自分の音楽感は「自分の解釈は一例であって共有する必要は薄く、その楽しみ方や解釈の仕方は聞く人に決定権がある」という気持ちでいる。

せめて共有するならリズムやコード進行、一部フレーズぐらいで、伴奏もギチギチに詰め込まないで展開も多くする必要性も薄い…と考えた時、最近の曲だと宇多田ヒカルの『One Last Kiss』が少し近いイメージだった。

※もちろん作った本人ではないのでどういう趣旨主体で作ったのかまでは理解してない、個人の感想です。


・主体がある=理解しやすい=理解の為に必要

先の話でも書いたように、ポップスでメロディが存在しない曲はメジャーのシーンだとほぼ存在しない。音楽の需要から考えて、楽曲の認識はボーカル(声)>メロディ>曲調>歌詞>その他伴奏 の順に理解されていく。ボーカルが存在するか否かで一般的な音楽に対する認識は大きく異なり、メロディも無ければ楽しみ方すら分からないという認識の人も少なくない。

つまり商業の場合、主体がないと対象の人に伝わらない=主体必須になる

誰かに評価されたい、共有したいとなった時主体は必ず必要になる。その意識が自分の中では「仕方なく」という認識でいる時が多いのが正直難儀なところ…

もしこれが分かりづらい時は「仕方なく主体を無くす」という認識で例えると分かりやすいかもしれません。

・おわりに

仕事として主体を用いた音楽を作る傍ら、完全に自分の作りたいように作る音楽もこっそり公開している。もちろん前者の方が需要も利益もあるが、それでも自分の感じた表現を形にする事は大事だし生き甲斐のような所がある。それが他人から評価の少ないものだったり見てよく分からない作品だったとしても、それが自分の作品だと胸を張って言えるぐらい作れたらそれで良い。

https://youtube.com/playlist?list=PLAsPTaRIhJM6Ja4phR9hLKClcphyrUMO4


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