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内からの演技と遊びの感覚

 演技を行う上で重要なものが、内側の衝動で動くことです。これによってまるで芝居の中の人間が感情やインスピレーションに従って生き生きと行動しているように見えるのです。トレーニングの初めで悩むこととは、自分のやりたいことが分からない、見つからないということです。
 こういった内的な衝動や活力に従って活動することを、インプロの父ともいえるキース・ジョンストンが言う「自然発生(spontaneity)」、遊びについて研究するスチュワート・ブラウンが言う「自発性(voluntary)」であると言えます。演技は命令や義務で何か行うのではなく、あたかも子どもが自然と遊びするように、内側からあふれてくる力に従って動くことです。 
 しかし大人になると途端に遊ぶことをやめてします。ボールなどの遊具を与えられても無意味で、無目的な遊びをしません。自ら理由やルールを求め、行動を規制し、喜びを失います。自分のイメージや発想に自信が持てず、不安を抱える役者がなんと多いことか!!いったいそのような状態の俳優を観て、本当に観客が楽しめるのでしょうか?

演技トレーニングと「遊び」

 では俳優のトレーニングではどのようにその自発性を呼び覚ます「遊び」の感覚を取り入れることができるのでしょうか?

 私が2017年の台北国立芸術大学で演技のワークショップを受講した時、講師のウルリッヒ・マイヤーホーシュ氏があるワークを行いました。200㎡の大きな劇場に30人近い生徒が一人ずつ椅子を持たせ、そして彼は「今からその椅子で遊びなさい。」、言ったことはそれだけでした。
 ある俳優はどうしたらいいのか椅子を眺め、またある俳優は椅子を馬に見立てて楽しもうとしたり、または倒してみたり椅子の下をくぐってみたり、楽しんでいる様子を講師に伝えようとしました。しかしホーシュ氏は「楽しんだフリをしていない?本当に楽しんでいるの?」と問いかけてきました。遊びは誰かにアピールするものではないのです。時間を忘れ、身体に没頭し、イメージが広がっていくものです。その瞬間から受講生が本当に「遊び」始めました。椅子が空中を舞い、地面を這い、生物となり、擬人化され、劇場全体が明るい生き生きとした空気で包まれました。あちらこちらで役者同士が椅子を通して戦ったり、恋をしたり、たわむれました。ありとあらゆるドラマが生まれては消えを繰り返しました。このワークは喜びや自主性といった感覚を俳優の内に取り戻させるものです。
 私たち大人は意志を用いて遊びに没頭できるのです。目的のないものに、目的を見出せることができます

人間は本能的に遊びを求めている

 この記事を書くきっかけは、スチュワート・ブラウン「play」を読んだことが始まりでした。もっと言えば演劇をはじめた当初から、「遊ぶ」ことと「演技」の関係性を潜在的に考えていたように思います。「Play」の本の中にこのような文があります。

「動物や人間すべて、最大の遊び手である。我々は遊びをするために作られ、そして遊びを通して作られる。」

 遊ぶことは私たちの本能であり、遊びを通して社会性や人間関係などを学ぶことができます。この本の中でも、動物が本能として遊ぶことをする実例として、雪原で野生のホッキョクグマとそりを引く犬が遊ぶことが挙げられています。動物といえども潜在的に遊ぶ欲求が備わっているのです。
 私は英語を子どもに教えています。8歳の子ども達に「夏の夜の夢」のパックの詩を、リズムやメロディを教える目的で、毎回英語のレッスンで取り組んでいます。英語を第二か国語とする日本人からするとかなり難易度が高いように感じると思うでしょう。しかし子ども達はレッスンをする中で「今度この詩についての絵を書いてみたい!」、「もっと早く読んでみたい!」などと要求してきます。生徒は妖精が奏でるリズムやイメージの世界に浸って、古語の英語の詩でも自由に遊んでいるのです。子どもは本能的に遊ぶことと勉強することをつなげています。彼らにとってパックのセリフはただの遊具であるのかもしれません。しかしその遊びの中で、英語の抑揚、リズム、発音を学んでいるのでいます。いやもっと子どもたちは詩やセリフのもっと本質的なものに触れているのかもしれません。
 「英語で“play”は「楽しい時間を過ごすために活動する」のほかに、「演技をする」、「(楽器を)演奏する」、「(スポーツ)をする」などの意味があります。俳優誰しもが演劇の楽しさを理解しています。多くのレッスンや稽古の中で「楽しむ」ことの重要性は説かれます。しかし大人になるにつれて日本人特有の奮励努力、勤勉実直メンタリティに重きを置かれたり、周りの視線やジャッジを不安になったり、楽しむことの後ろめたさから、「遊ぶ」という意識を失っていくのです。

 私は演技講師・演出家として、芝居やる上でこの「遊ぶ」姿勢を改めて強調したいのです。スチュワート・ブラウンは遊ぶことは「無目的」「楽しむこと」、「時間からの解放」、「自意識の減少」、「即興の可能性」、「継続させる願望」であるといいました。どれも演技において欠かせない要素ばかりです。先ほど述べたとおり、我々大人は「無目的」の中でも、遊ぶことが可能です。講師や演出家が、道のないところに道を見出し、俳優を目的地に連れていきます。

「遊ぶ」ための安全で健全な環境

 しかし俳優が稽古やトレーニングにおいて遊ぶには、稽古場の環境が安全かつ健全でなければなりません。それは俳優が繊細な存在でもあるからです。俳優はもっとも弱いところを観客に見せるのです。
 講師・演出家に権力が集中してしまってはいけません。俳優がまわりの人の顔色をうかがいって、自分の演技を内側からではなく、演出家や講師を喜ばせようとしてしまうからです。その演技は周りの人にも、自分でもつまらなく、時として耐え難いほどです。演出家や映画監督の演技ワークショップは、目的を間違えれば俳優が演出家にこびた演技を学ぶ場となってしまいます。
 また稽古の場所は清潔で無駄なものがあってはなりません。これはピーターブルックの弟子である笈田ヨシが俳優は稽古場の清掃を求めたように、場を整え清めるためです。俳優の意識は繊細な形でつみあがっています。余計なものがあれば、それだけ遊ぶための空間や意識が失われるのです。

 ここまで内的な衝動に従って行動するのに、「遊び」の感覚を取り入れることを話しました。舞台で遊ぶことは簡単に見えて難しいですし、難しいようでとても容易にできます。多くの障害が自分の前にあるように思えますが、本当に遊ぶことに許可を本当に出せるのは、自分しかいないのかもしれません。

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