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怪我したからこそ見えたこと

大抵の人は、自身の経験や、今自身が置かれている境遇を参考に周りを見る。「周りの人も大体私と同じだろう」、と。考えたことが無いことや、経験したことが無いことには配慮が及ばないことが多い。それに、今現在自身が体感していないのであれば、自然と配慮を忘れてしまうことだってあるだろう。そんなふうに、人はその人自身の持つ物差しで周りを測るものだ。

でも、その物差しは自身の置かれた境遇で変わる。私にとって、それは怪我だった。半年間という比較的短い期間に、骨折を2度も経験したのだ。特に、最初の骨折で私の意識は変わった。
最初の骨折は手の小指だった。幸いにも利き手ではなかったが、いくつか不便なことがあった。手に力を込めにくい、自転車に乗りにくいといった些細なこともあったが、一番困ったのはエスカレーターだ。私の住む地域では、エスカレーターに乗る時、立ち止まる人は左に並ぶという慣習がある。当然、手すりに乗せるのは左手になるのだが、骨折した手で手すりを掴むのは難しかった。かといって、エスカレーターの右側で立ち止まると迷惑になる。本来、エスカレーターの上で歩くという行為自体が推奨されていないが、そういうことをする人はよく見掛ける。"訳あってエスカレーターで立ち止まっています"ということを伝えるマークがあると知ったのは骨折が治ってからだった。こちらの地域では珍しく、極たまにエスカレーターの右側に乗って立ち止まる人を見掛けるが、"不文律を知らない"や"不文律を守れない"のではなく、事情あってのことだろうかと思えるようになった。

例えば、自身が妊娠するか身近な人が妊娠すると、周りにも意外とたくさんの妊婦さんがいることを実感した、という話は耳にするし、自身が当事者でなくなると気付けなくなってしまうとも聞く。人が他の生物と大きく違う所は、文字や絵画、映像など様々な方法で情報を伝達できるところだと思う。自身の体験だけでなく、本で読んだ、番組で知ったなどのさまざまな知識を、周りを測る物差しに活かせたらと思う。知ったことを実践に移すことは難しくとも、知ろうとすること、考えることからでも取り組んでいきたい。