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なんだろうね、好きって。

棒付きドラゴンです。恋愛マスターです。

最近自身や他人の恋愛やらを議論する機会が続いたのでここでひとつ、言葉に仕舞って置こうと思います。

雑感

恋愛のはじまり

いつから人は人を好きになるのかは正直わかりません。初対面で誰でも好きになってしまう人もいれば、恋愛感情などなしに異性の友達がいっぱいいるなんて人も。結局人それぞれの視点、70億通りの恋愛観があるので多くの場合に当てはまるだろうという話しかできないわけです。

「最近さ、恋愛とかしてる?」これを異性に言われたときにその言ってきた異性を意識するでしょうか。これはどうでしょう。僕はそこまで意識はしませんね。これは自分と相手の中にはない、世界の漠然と存在する恋愛という対象を2人で見ているような感覚で、どこか他人事なところがありそう思うのかもしれません。ここではまだ恋愛が始まっていないような気がするんです。

では「アタシのこと女としてみてる?」「俺だって男だ」ではどうでしょう。これは恋愛に該当する会話のような気がします。皆さんはどうでしょうか。こう比較してみると、自分たちの話なのか、概念としての恋愛の話なのかで大きく意味が違うような気がしますね。そう、今話している恋バナが2人のことでもある場合。それが恋愛のはじまりだと、そうしてみましょうよ。


恋愛の目的

どうして人を好きになるの?と不意に聞かれ上手く答えられなかった経験が何度かあります。筆者の話になりますが、ここ数年1人の女性に対して恋愛感情を、その時々で強弱はあれど燃やし続けています。しかしこれは一方的な好意で相手は存在しない恋愛なので、正直つらい想いをすることの方が多いのですが、そこに来てなんでそんなことを続けているの?と聞かれれば、好きだから以外に答えようが無かったりします。

では何故好きなのか。僕のは、中学生のころは、ハッキリ言って彼女が欲しいがための恋愛でした。性欲に近いところに恋愛もあって、とにかくイチャイチャしたいぞとそれをする相手を探していたところがあって、そういう恋愛はそれが満たされないと解ると光の速度を超えてすぐに終わってしまいます。

それを経て、現在大学生の筆者が想う恋愛は、長い時間一緒に居てもお互いを傷つけることなく、またお互いの傷を癒せるような部分、相補的な関係性が築ける関係性を重要視しています。しかしこれはかなり理路整然としていて、好きという爆発的なエモーションとはどこか一致しません。やはり好きという感情は言葉にするには高温すぎるのだなぁなんて。

何故好きになるのかも、好きが何なのかが曖昧なのですごく難しいですよね。やはり誰しも人恋しくて、それを埋めてくれる誰かを探しているような気がしますが、例えばお互いをかなり優先順位の高い位置に設定しあう、親友のようなものでいいじゃないかという反論に返す刀がありません。セックスは確認作業なので、この話のもう一段回後ろのレイヤーですからここでは触れません。

そうすると恋愛の目的としてハッキリ言えることはおそらく無いんだと思います。それは就職活動をしている学生が志望動機を聞かれるように、皆がそれぞれの動機で恋愛というものを始め、それが天文学的な確率でハマるピーズを見つけた場合に、お互いのことが好きだと認識する。降格となんだか陳腐です。ちなみに僕の恋愛の動機は孤独には生きられないし、自分の孤独の相手を分散するほど器用でもないので、そんなクソ迷惑を甘んじて受け入れてくれる存在が欲しいと思っているから、ですかね。


恋愛の終わり

いつか終わるから恋愛がしたくないという知人がいます。僕の視点ではその人はかなり魅力的な部類の人間で、僕自身も上記のようなしがらみ(綺麗に言っているが煩悩であることを銘記したい)を全く持っていなければ付き合って欲しかったというレベルであります。

恋愛はカップルから夫婦に移り変わるタイミングで、終わるとまではいかなくともどこか駆け引きのような、あの心地のいい心労を感じることはおそらく減ると思います。恋愛の楽しみをその駆け引きとしてしまえば、どうでしょう夫婦生活、一家というチームメイトになることのなんと退屈なことか。これは現在家庭を持つ夫婦の立場になって考えることが自身の境遇では不可能に近いのですが、まぁ見当違いなことを言っているのでしょう。

と思いつつも、おそらく夫婦という関係はやはり自分の帰る場所として、相手がキチンと機能しているかという不安は一度取り除かれた状態から始まるのだと思えてなりません。結婚なんて、そうじゃなきゃ踏み切れないじゃないか?もっと気軽にしているものなのだろうか?若さを呪ったりしています。

しかしどうでしょう。僕はハッキリと『恋愛は、長い時間一緒に居てもお互いを傷つけることなく、またお互いの傷を癒せるような部分、相補的な関係性が築ける関係性を重要視』と述べています。なんと安定を求めた退屈な恋愛観(恋愛感という表記を避けた)。こいつ恋の駆け引きなどするつもりが毛頭ないわけです。僕の中ではもう、恋愛なんかが終わっているなんてこともあるのかもしれません。

すこし、とっ散らかったのでまとめると、恋愛という不安定な駆け引き、シーソーゲームに例えられたりもしますね。それはおそらく永続的には存在せず人の心はまた、安定を求めるものだと言えそうです。これも多くは、という断りが要りそうですが。そしてその終わりが、恋愛をよりロマンチックな代物にしていたり、ドラマとして映像に収められたりしているのだろうと思います。


男女の友情について

更に個人的な話をします。今の筆者の、好きな人がいて、しかしその人に振り向いてもらえない状態で、異性と2人キリでどこかへ出かけることを、皆さんどう評価されますか?絶対的に善し悪しを決めることは誰にも簡単なことではありませんが、僕自身はこれをあまり良くないことだと思いながら、しかし何度か経験しています。まだ付き合ってるわけじゃないから好きにすればいいと言ってくれる友人もいます。また出かけてくれた異性にその人を忘れてしまった方がいいと言われたことも。

そんな中、自分も恋愛する気が無いので完全な友達として、いくらでも遊ぼうという提案をされました。お互い、お互いとは絶対に付き合う可能性ゼロだから、いくらでも遊べるという異性。無邪気にそういう彼女には少し呆気にとられました。

これ、彼氏に近づいてほしくない女性の典型みたいな感じじゃないですか?

しかしこの提案、あんなに毒素も無く言われてしまうとやはり何がいけないのだろうと思ってしまいましたよね。何か間違いがある可能性がゼロ出ない保証なんか無いところや、周りの目もある中家にあがったりすることを、私たちは友達なので大丈夫と言い張ると逆に邪推を向けられるだろうことなどツッコミどころは今日本が抱える環境問題ほどあるわけだが、どうもこれにいやそれは違うだろうと返す回路が働かなかった。

男女の友情は存在するのだろうか。

恋愛の名前

そういえば恋愛に適正年齢があるのかみたいな話もしたことを書いていて思い出した。相手との年齢差も、自分の年齢も、言うなれば『キツイ』という感覚はどこかにあって、だからこそ年の差婚はそれだけでテレビに出演できるほどのトピックになる。愛に決まった形は無いが、有り体な物は当然存在する。最近ではLGBTも四文字を超えて、そこに明るく無いので直接言及することはしないが、こうして恋愛に名前を付けていく作業は、どうも同じ思想の者同士が集まるためのタグ付けではなく、自分たちと違う存在を排除するための壁に思えてならない。

自分たちを守るために使っている言葉が、実は蔑称の目的から始まっているのは他にも例があるので考えてみてほしい。

これから

長々と静かな部屋で頭を指で突きながら書いてきたが、どうだろう。一度(ひとたび)外へ出て、居酒屋で絡んでくる異性、クラブで喋ったことも無いのにキスをしてくる異性がいたら、こんなことは全て白紙になってしまうのだ。

俺だけかもしれんけど

こんなことは自分が恋愛についてキチンと理解しようとしていると、他でもない自分に言い聞かせたいだけで、結局はヒト科ヒト目に属する動物でしかないのかと、東武動物公園でダチョウの飼育小屋を見ながら思った次第である。ホワイトタイガーも良かったぞ。


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