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心の中にあるもの。

一人暮らしをするようになってから、幾度となく『豊かさ』について考える機会があった。-考えざるを得ない場面に何度も遭遇した、といったほうが正しいのだと思う。

お金の価値観。

父がいなくなったとき、『お金』の価値観が分からなくなった。単にパニックになっていたのかもしれないし、「お金なんかより、心のささえだった父のほうが大切」と本気で思い込んでいたのかも。

いま考えると本当にばかだなと思うけれど、当時は金銭的にもかなり余裕があったので、相当な無駄遣いをした。「お金を使うことで、心の虚無感を埋めようとしていた」のだとおもう。

「あの時のお金がいまここにあればー」なんてナンセンスなことは考えたりはしないが、なぜあのときあんな使い方をしてしまったのか、それはまったくわからない。

結果、我が家にはモノだけが増え、心の隙間はうまることがなかった。むしろ、さみしさは増していく一方だったような気がする。

さみしさというよりも、『むなしさ』というほうが妥当かもしれない。心の傷に、対価を払って『モノ』という軟膏で一時的に対処する自分。しかしそれはただの対処療法なのですぐに効果は切れる。いくら塗り込んでも、傷の一番深いところまでは届かない。そしてまた新しいものを買う・・・そんなことの繰り返しだった。

店側からみれば、当時の私はとてもよいお客さん(カモ)だったと思われる。特に強く商品をオススメしなくても、気に入ったものがあればどんどん買っていってくれるのだから。

食べ物。

母を喪ったときは、今度は食べ物に走っていた。強いストレスから、一種の過食症になっていた。実家に帰るたびに、姉に体型についてツッコミを入れられていた。

特に高級なものを食べていたわけではなかったが、これもまた、気を紛らわせるために行っていたひとつの『儀式』だったように思う。両親を喪い、心のバランスを崩し、どこへ向かったらいいのかもわからない。出口の見えない真っ暗な迷路を手探りで歩くような感じ。

「食事さえしていれば、まずは生きられる」そんな謎の安心感が、自分を過食へと走らせたのは間違いない。

母の死を目の当たりにして感情の処理ができず、何のガードもしないまま心が恐怖にさらされ、ただひたすらおびえていた。

しかし、食べ物で胃袋は一時的に満たされるけど、逆に心は空虚感でいっぱいになっていく。-なんでだろう。自分の中の問題と、きちんと向き合っていないからかな。と、ここでようやく気付き始める。

心の中の『豊富』

母の月命日を何度か過ぎて、やがて一周忌を終えるころ。ようやく私の心は安定し、新しい人間関係を構築したりする余裕ができるようになった。この時期になってようやく、心のバランスが取れるようになってきたのだとおもう。

食事と運動を規則正しく取り入れ、食べ過ぎない。そして、いらないものは買わない。今までなぜこんな簡単なことができなかったのかわからないが、まともな判断ができないほど心がすさんでいたのだろう。

ー久しぶりに大事な人ができた。今まで金銭でごまかそうとしていた心の傷と隙間が、この大切なひとの存在によって癒され、埋められていくのを感じた。

『ゆたかさ』って、実は金銭面だけじゃないんじゃないかな。本当は、精神的な部分ー心を満たすことが、何より大切なんだと。

お金で世の中の問題はある程度解決できるんだろうけど、反面、どうしてもそれだけじゃ手に入らないものってある。お金では買えないものーたぶん、それがほんとうの豊かさにつながる。

いくら金銭をたくさん持っていても、心がさみしいままでは満たされているとは言えないし、対価を払ってその隙間を埋めるのはむなしい。これは私が今までやってきたことなのでよくわかる。

大切な存在は、癒し。

わたしにとっての豊かさは、癒しにつながる。大好きな人、動物、もの。存在してくれているだけでありがたい、貴重なかけがえのない、たぶんお金では絶対に買えないもの。

自宅で長年飼っている金魚たちとか実家の犬もそうだし、たった一人の家族である姉もそう。そして、大切な人。誰しもがきっと心の中に持っていても、普段はきっと気づかない。多忙な日々を送っていると、むしろ「そばにいるのが当たり前」とか思っている。


実はそれは、全然当たり前なんかじゃなくて。離れてから気づくのではあまりにも遅すぎる。姉に関しては、お互い依存している部分もあるのかもしれないけど。まあ・・・依存するよね、たった一人の家族だもの。。どちらかが欠けたら、残された方が我が家の最後の生き残りということになる。

ペットでも人でもそうなんだけど、私は『喜んでいる姿』を見るのが好きだ。人の笑顔、動物が喜んで自分に寄ってくる姿。それらは、癒しを与えてくれるとともに「愛されている」という実感をくれる。言い換えれば、『自分の存在を肯定してくれる』。私はここにいていいのだと。それは、私が相手に居場所を与えていることにもなる。お互いの信頼関係があって、はじめて安心感を与えあえるのだとおもう。


逆にいえば。自分を不安にさせたり、腹黒くて謎の駆け引きをするような人はあまり好きになれない。何考えてるのかよくわからない人とか。少なくとも動物は駆け引きはしないし、人間でも素直な人物が一緒にいて心地よい。

つねに相手の顔色をうかがい、「この人はいま何を考えているのだろうか」などと常に気にしているような状態では、本当の信頼関係は築けていない。ー自分もあまり知らない人の前では感情を出さないので、「何を考えてるかよくわからない」と思われていそうだが、それを『信頼関係が成り立っていない』というのではなかろうか(笑)。「裏切られるといけないから本心見せないでおこう」って。違うのかな。。

メンタルが不安定になると、どんどん心が貧しくなっていき、やがて人を疑うようになったり信頼できなくなったりするのは心理学的にも仕方のないことだとは思うが、少なくとも自分はこれからも心の安定を保ち、むやみに人を穿った目で見たり勝手にひとりで疑心暗鬼に陥ったりしないよう、くれぐれも気を付けていきたい。




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