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娘の帰宅とピンクバニーカクタス

その日は突然やってきた。

ツンデレ思春期11歳の娘が、家に戻ってくる―

夜7時。その日最後の打ち合わせを終わらせ、久しぶりに早く帰れるなと思った矢先、スマホが鳴った。娘の名前が表示されている。妙な胸騒ぎがして、すぐに電話に出ると、娘が泣きじゃくりながら言った。

「ママぁ~、迎えに来て! もう、こんなところに、いられない」
やっと絞り出した言葉だった。泣きはらして顔を真っ赤にしている娘が目に浮かんだ。周囲で何やらもめているような大人たちの声がする。
「よしよし。わかったよ」

「よしよし」なんて、小さな子どもに言うような言葉を、生意気ざかりの娘に向かってかけた自分に少し驚いた。何年ぶりに口にしただろう。
「迎えに行くよ」
「いつ?」
「今、仕事終わったから、30分以内には着く」
「わかった。早く来て」
「うん。大丈夫だから、落ち着いて」
娘が泣き止まないまま、電話を切って急いで向かう。

車を走らせながら、会議室にあったピンクバニーカクタスを思い出していた。ウサギの耳のような形をした、可愛いサボテン。ふわふわとしたトゲが、人工的にピンク色に染められていた。

娘は、ここ9ヶ月あまり、自宅から車で7分ほどの私の実家で暮らしている。
祖父母のどちらかに叱られて、あるいは喧嘩をして、家に帰りたいと電話をしてきたのだろう。これまでもそういうことは何度かあった。

娘が実家に居ついたのには、何か特別な出来事があって家出したとか、祖父母が孫と一緒に暮らしたがったとか、そういう「これ」といった理由はない。私はシングルマザーで、仕事も忙しく、娘は小さいころから実家にお世話になることが多かった。
そのうちに、子どもたちが独立して使わなくなった部屋のある私の実家に、娘は「自分の部屋」をつくっていた。祖父母にも私にも、なんの断りもなく、いつの間にか、そこは娘の部屋として既成事実化していった。

「あいつはいつ帰るんだ?」父が言う。
「わからないなぁ」
「連れて帰れよ」
「私はいつ帰ってきてもいいんだよ。本人がここにいるって言うからさ」
「いつもツンケンして、言うことも聞かないし、ここにいたって楽しくないだろうに」
「まぁ、そういう年頃だからねぇ……。一人の部屋とテレビがあるからここがいいんじゃないかな」

同じような会話を何度か繰り返しながら、コロナによる臨時休校の期間も、娘は実家で過ごした。私は私で、娘の気持ちを尊重しながら、時々心配しながら、実家から帰ってこない娘を無理になんとかしようとは思わなかった。

娘とは毎日顔を合わせて話はしていたし、大概は機嫌よく学校のことや友達のことを話してくれた。けれど、いつの間にか、ある種の会話を娘は受け付けなくなっていた。

「可愛いねぇ」娘を見ていて思わず私が口にすると
「やめて」と鋭い視線が飛んでくる。
「愛しているよ」なんて言おうものなら
「ウザ」「キモ」「草w(クサ)」のどれか一つが返ってくる。

少しでも私の姿が見えなくなると、「ママ、ママ」といって追いかけてきた娘が―、自転車の子ども乗せシートに座る背中に向かって、「あなたが大好き」という自作のヘンテコな歌を聞かせながらペダルをこぐ私に「ママがいい歌うたうから、感動しちゃったよ」なんて大人びたことをいって驚かせてくれた娘が―、ついこの間まで「抱っこ~」チュッ、チュッ、としてきた娘が―。

あぁ、思春期とはこういうものか……。自分にもそういう時期はあったのだから、気持ちはわかる。気持ちはわかるが、親の立場になってみると「え!?こんなに“急に”くるんだっけー?」というのが実感。

「その日は突然やってきた」のだけれど、その日を迎えるために、ゆっくりと準備はしていた。娘の部屋をつくるために、物置のように使っていた部屋を断捨離して私がそこへ移ることにした。しかし、なにせ一人での作業だし、忙しさにかまけて遅々として進まない。娘に手伝わせろと父に言われたが、遊びに忙しい娘と予定を合わせるのも面倒で、結局は全てを一人でやった。

最後に、2つくっつけて使っていたシングルベッドを動かして、新しい自分の部屋に運んだ時、ふと、わかった気がした。

あの子はきっと、私から、母から、離れたかったんだ―

思春期の始まり。自分だけの空間、自分だけの時間がほしい。母に知られたくないこと、母に入ってきてほしくない世界ができつつあるんだろうな。「娘の部屋」になったかつての寝室には、ずぅっと一緒に寝ていた大きなベッドが半分になって、ぽつんとあった。
頼りないような、すがすがしいような、その部屋を眺めて私は、満足だった。

準備が整ってほどなく、泣きじゃくる娘からの電話である。私からすれば、何の前触れもなく何となく実家で暮らすようになった娘は、ちょっとしたきっかけで急に自宅に戻ってきた。こうして、また娘と2人の生活が始まった。

思春期を生きる娘は、あの日、会議室にあったピンクバニーカクタスかもしれない。可愛らしい見た目とは裏腹に、彼女にとって、自分を取り巻く世界は砂漠のように過酷に思えて、トゲを持たずにはいられないのだろう。トゲを持つことで、その内部にたっぷりと栄養を蓄えようとしている。成長するために。

ちょっと気になって、「バニーカクタスの育て方」を調べてみると、育てやすい、水のやりすぎに注意。そして《トゲは小さく柔らかいので痛くはありませんが、一度刺さるとなかなか抜けにくく、どこに刺さっているかわかりづらいので、トゲが抜けずいつまでもチクチクします。》と書いてあった。

娘の小さく柔らかいトゲが私に刺さったとしても、そのチクチクを愛おしく思うのだろう。母にならせてくれたことは、私の人生の中で一番深い喜びなのだ。

そして今朝も、ツンデレ思春期11歳の娘は順調に不機嫌である。

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