★極道学園(398)

寺田寅彦というのは東大の物理学者であり夏目漱石の一番弟子と言われた人だ。彼が漱石との交流を記した「夏目漱石先生の追憶」という書物があるのだがまるで恋人へのラブレターみたいな内容である。

【いろいろな不幸のために心が重くなったときに、先生に会って話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。

不平や煩悶のために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。

先生というものの存在そのものが心の糧となり医薬となるのであった】(寺田の談話)

彼らの交際のきっかけは俳句である。彼らが出会ったころ漱石は既に俳人として有名だった。寺田も俳句に興味を持ち自分の作品を漱石に見せ、添削してもらうようになったのである。

寺田は科学者でありながら文系の学問にも強い興味を持っていた。そして漱石は文人でありながら学生の頃は数学が得意だった。漱石の文章が非常に論理的なのはちゃんと理由があるのだ。寺田と漱石は「文系も得意な理系」「理系にも造詣が深い文系」という組み合わせだったのである。彼らを見ているともはや理系文系というグループ分けが無意味とさえ思える。

以上の話は先日のルチ先生の講義で聞いた内容である。

「三四郎」には野々宮さんの実験室の描写がある。これは漱石が寺田から聞いた実験内容を書いたものである。

漱石は当初、寺田が取り組んでいる実験aについて書こうとした。しかし寺田はいろいろ理由がありそれを拒否した。たぶん守りたい秘密があったのだろう。そのため漱石は寺田が取り組む実験bについて書いた。

俺が興味深く思うのは漱石と弟子が上下関係ではなかったということだ。漱石は弟子と対等な関係であることを望んだ。神の前ではみな平等と唱えるキリスト教みたいだ。

夏目組の親分みたいな存在になることを漱石は酷く嫌った。権威主義が嫌だったのだろう。文壇の大御所みたいな扱いはNo Thank youですよ、と。国から文学博士の授与を打診され断った話を聞いて笑った。まるで武士みたいだ。

日本文学という山脈の中では富士山みたいな存在の漱石。一方の俺は高尾山。(笑)

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コイケから電話があった。着メロは井上陽水の「なぜか上海」である。

「親分、お疲れ様です!」

「あ、どうも。お疲れ様です」

「烏賊の塩からが出来たので味見をお願いします」

「はい、喜んで!」

会長室から徒歩20歩の厨房に行ったら太田がいて烏賊の塩からをおかずに大盛りの丼飯を三杯食べていた。相変わらずの大食である。「親分、この塩から、なかなかっすよ」と興奮する太田であった。

夕刻、船内スナックの従業員の面接をやった。太田、慶子、俺
が参加して三人を面接し、全員採用した。みな都内のスナックで働いた経験がある女性で年齢は21.25.29であった。時給は二千円で勤務は夜八時から夜中の十二時まで、である。店は中国、韓国、中東から来た金持ちのエロおやじが毎日のように来店してたいへん好ましい売上状況である。

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