スキンヘッドと社会の多様化
僕は再びスキンヘッドにしている。
脱毛症というのは自己免疫疾患らしく、元々アレルギー体質の僕には脱毛症になる素質があったのだと思う。多発性で10箇所以上はあっただろうか。隠しきれなくなってスキンヘッドにした。
だけど、それで良かったのかと考えている。
僕は見られて恥ずかしいという思いと、いくつもある脱毛は他人をゾッとさせるんじゃないかという思いがあった。どちらかというと後者の感情が強くてスキンヘッドにすることで脱毛を隠した。
でも、この感情は克服すべきものじゃないかとも思えてきた。
克服というのは隠すのではなく晒すことで。
外見に特徴の出る疾患や障がいとかって、もっとみんな見慣れるべきじゃないだろうかと思う。
障がいや病気に極力影響されずに暮らせる社会が僕はあるべき姿だといつも思っている。
脱毛は帽子を被ったりスキンヘッドにすることでいくらかは隠せる。それでも帽子を被るのが相応しくない場もあるし、スキンヘッドはそもそも女性には相当ハードルが高い。
円形脱毛症を見たら一瞬びっくりするけど、多分、そのうち慣れて気にならなくなる。はず。
隠さない人が増えると脱毛症の人がいる景色が当たり前になる。
これは脱毛症の他人が外出することに対する「障がい」が小さくなるということだと思う。
世の中には「障がい者」という言葉が定着しているけど、本当は「障害」は社会と個人(の個性)の間に存在するものだと思う。
そして、その「障害」を取り除くには社会の側の歩みよりが欠かせない。
僕の場合は脱毛症であり、一般的に、または法的に「障害」と呼ばれるものではないけど、人によってはこの脱毛症というのは大きな「障害」になり得る。
そして、その「障害」に対する社会の歩みよりとして「見慣れる」ということを要求しても良いのではないだろうか。
そして、僕も歩みよるため隠しすぎないようにしようと思う。
なんか、シリアスで固い話になってしまった。
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