選択することの幸福と責任
「幸せはお金じゃない」
巷で溢れる言葉であり、事実だと思う。
そして、お金があるということはどういうことかと考えて一つの捉え方を発見した。
お金があるということは「選択肢が多い」ということでもある。
昼御飯の予算が300円であれば、コンビニのおにぎりか、松屋の牛めし(並)ばかり食べることになる。がっつり弁当を食べたければスーパー玉出に限られる。
でも、予算1500円出せる人は小洒落たパスタランチを召し上がることもできれば、牛めしをかっ食らうこともできる。成城石井でもスーパー玉出でも弁当が買える。
選択肢が多いということはそれだけ自由であるということ。これは少し幸せのイメージにつながるようにも思える。
ところでサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言う。ちゃんとした意味は知らんけど、自由というのは自分で行動を選択したぶん、選択した結果が悪くても言い訳できない。結果を自分で引き受けないと行けない。それが責任ということだと思う。
例えば、親が採ったキノコを食べて家族が食中毒を起こしたら、採って食べるという選択・決定をした(自由があった)親は責められても、出されたものを食べるという選択肢しかなかった(自由がなかった)子どもは責められない。
そう思うと自由はそれだけをもって幸せだとは言いきれないのかも知れない。ただ、責められようが責められまいが結果としては親子ともども食中毒になってるし、不幸な出来事であることには変わらないか。
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