プライドについて

「プライド」について考えることがよくある。いや、実際はよくあったといった方が正しい。

プライドについて、初めて意識したのは、小学校の4年生の時だったと思う。
僕は当時、ミニバスケをやっていたのだが、2つ上にバスケットの圧倒的に上手なMという先輩がいた。当然、チームでもキャプテンを任されていたのがM先輩だ。小学生がやるミニバスケでは背番号4番がキャプテンの印で、もちろんM先輩も試合では4番をつけると思っていた。しかし試合前日、M先輩は監督から5番のユニフォームを渡された。
M先輩は小学生ながら身長170センチにもおよぶ長身なのだが、ミニバスケに芳醇な活動費があるわけもなく、4番のユニフォームは小柄な小学生が着る程度のサイズのものしかなかったのだ。そんなわけで、4番のユニフォームは小柄な副キャプテンのT先輩が着ることに。

監督も、チームの財布事情の話をしながら「Mがキャプテンであることには変わりはない」と、M先輩を慮ったが、M先輩はどうにも腑に落ちない表情で、なんなら涙さえ浮かべている。

今から考えれば、小学生なので泣くことなんて珍しくもないと思えるが、当時「2個上のバスケの天才」とおもっていた先輩が泣きそうになっているのは、僕にとって衝撃的だった。

その日、家に帰ってこの話をする中で両親から出てきたのが「プライド」という言葉だった。

プライドを言葉の理解からではなく、体感から飲み込んだ僕はその後しばらく、あらゆる言動で「他人のプライド」を気にするようになった。
また、長男だった僕は、どんなことでも負けるのが悔しかったが、これも「プライド」なんだと、自分の中のプライドを見つめながら生きた。

とはいえ、そうやって思春期に入ると他の情報や感情が、怒涛のごとく前後左右から東西南北から現在過去未来から老若男女から縦横無尽に襲ってくるので、プライドという言葉やその意味の切っ先は、他の言葉と同じくらいのトンガリになっていった。

その後、バンドをやったり放送作家をやったり、バイトをしたりするうちに「プライド」という言葉は、僕にとって特別なものではなくなったし、なぜかここ10年、いいのか悪いのか、僕自身のプライドというものがどんどんなくなって、プライドという言葉に出会ったときのこともすっかり忘れて過ごしていた。

ところが数ヶ月前。プライドという言葉が唐突に、あの時のカロリーを持って目の前に現れた。

ライターをやっている僕は、いろんなお店やスポットの紹介文を書く仕事をすることがよくある。そんな中で、関東にあるハイキングにぴったりの◯◯山についての記事を書いていた。
専門の人に取材をしたり、本やネットで知った情報を文章にしていく中で、たくさん見聞きしたのが「頂上から、富士山が見える」という魅力。

それを見聞きするにつけ思ったのが「第一の魅力が”頂上から他の山が見える”っていうもので、この山のプライドは大丈夫だろうか」ということ。
なんだか、友人だと思っていた相手に「あなたの魅力は、あなたがAさんと仲良いところだよ」といわれているような気分。

◯◯山のプライドは大丈夫だろうか。
僕は、◯◯山にM先輩みたいな思いはさせたくない一心で、なんとか専門家の意見やその他の情報から、他の魅力をあたったが「登山道が整備されて登りやすい」「トイレが綺麗」「季節の花がいい」など、パッとしない。

僕は仕方なく「◯◯山も、相手が富士山だから仕方ないと思ってくれるよな」「M先輩も、4番を取られたのが同級生ではなく、マイケルジョーダンだったら泣かなかっただろうし」と、わけのわからない理屈で押さえ込んで、第一の魅力として「晴れた日には、頂上から富士山の美しい姿も!」と書いた。

◯◯山のプライドのことを考えると、今でも胸がチクっとする。

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