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#6 藤田千代子先生によるご講演(2023)


1. はじめに

ご覧いただきありがとうございます。中村哲記念講座TAのS.L.です。今回のnoteでは2023年11月8日(水)に行われた藤田千代子先生のご講演の様子をお届けしたいと思います。

藤田千代子氏について
看護師。1990年からパキスタンにて中村哲医師と共に医療活動にあたり、現地での女性の診療やナース育成にも尽力しました。現在はペシャワール会のPMS支援室長として、現地事業体PMSと連絡を取り合い、活動をサポートしています。2021年、看護活動の国際貢献者に贈られるフローレンス・ナイチンゲール記章を受章しました。

(本講座ポスターより抜粋)

今回は、ご講演日前日にアフガニスタンより福岡へ戻られたというお忙しいスケジュールの中、ご講演していただきました。この場を借りて、藤田千代子先生に感謝申し上げます。

記念講座の様子

2. 講演の内容

現地で撮影された、地震の様子について伝えるビデオ

<<ペシャワールでの活動について>>

 藤田千代子先生が中村哲先生と共に活動をされていたのは、アフガニスタンとパキスタンの国境、ペシャワールです。ペシャワールの様子として、藤田千代子先生が述べられていたのは、

  •  医療従事者の目から見ると、貧富の差が激しい(「ペシャワールにて」で中村哲先生もおっしゃっている)
    召使いが20-30人いるお金持ちの家もあれば、タンガ(交通費が最も安い馬車)で移動する人もいる。また、保険制度があり個人の負担が1~3割の日本とは異なり、ペシャワールには保険制度がないため病院に入るためのお金やレントゲン、血液を測るなどの検査や薬、それぞれにお金がかかるため一家に一人でも病院が出ると大きな出費がかかる。

  • 戦乱の国
     1979年にソ連が侵攻して以降、隣国アフガニスタンでは戦乱が続き、地続きのパキスタンに難民が流入した。内戦がなかなか終わらず、40年間戦争の連続であった。このような状況の中で難しい病気にかかると、死ぬのを待つしかない。

  • 口コミの社会。
    「ペシャワールのミッション病院に親切な日本人医師(≒中村哲医師のこと)が来た」という噂はすぐに広まり、ハンセン病以外の患者も押し寄せた。

ということでした。また、ロシアーウクライナ間の戦争が始まった際にされた「21世紀になって戦争が起きるとは!」という報じ方に対して、一昨年まで戦争が続いていたアフガンのことを思い、疑問を覚えたそうです。アフガンでの戦争ではドローンも飛んでいたにも関わらず、メディアは報じませんでした。中村哲先生が会報の中で訴え続けていたメディアへの疑念に、通じるところがありました。

アフガニスタンについてお話しする藤田千代子先生

<<藤田千代子先生の活動と中村哲先生の関わり>>

 ミッション病院の外に、アフガン難民キャンプの診療をする病院を立ち上げ、医療従事者自らが難民キャンプに向かう、という活動が始まった際に、藤田千代子先生はハンセン病患者のケアを任せられたそうです。そこで藤田先生が感じたのは文化の違いでした。

 藤田千代子先生は(まぶたを閉じられなくなる)兎眼や(手足が挙がらなくなる)ドロップハンド・ドロップフットなどの症状が見られる患者のサポートを行いました。オペ室の準備を任された際に、手術道具の滅菌に使う道具をバザールに行って探し、購入したところ「明日届く」と言われていても届く気配が全くありませんでした。なかなか届かない事にイライラしていると、中村先生から「藤田さん、アシタアシタよ」と言われたそうです。
「どういうことですか?」と聞くと、(パキスタンで使われる)ウルドゥー語で「アシタアシタ」(アーヒスタアーヒスタ)というのは「ゆっくりゆっくり」という意味で、現地を非難するばかりではなく、まずは自分が理解するために「パキスタンにきたらまず3年は寝て暮らせ」とも言われたそうです。ハンセン病棟の門が空いたのは1ヶ月後。馬車で巻き付けられた滅菌道具が届いたそうです。その時に、藤田先生は「大変なとこにきた!」と思ったと言います。

 また、藤田さんがハンセン病患者のケアを任せられた時のこと。(中村哲先生は)ハンセン病は早期発見が重要であるため、女性患者の早期発見に取り組みたいと思っていたそうです。しかし、アフガンは自分の父や兄弟以外に、手首足首より上を見えることを良しとしない文化です。中村先生は女性患者を診察できませんでした。そこで女性患者のケアを任されたのが藤田先生。女性患者は普段医者に診てもらう機会が少ないので、藤田先生の前では「やめてくれ!」と思うくらいブルカの中を見せてくれたそうです。その際ショールの下の長袖長ズボンの下にダラダラと流れる汗を見て、藤田先生が「真夏になんてものを着ているんだ!」と怒ったと言います。
 こうした文化の違いを藤田先生が口にすると、中村哲先生は「見慣れないもの、ただの違いであるのを進んでいる遅れている、優れている、劣っていると、自分の物差しではかってはいけない。」「他の文化を非難することはならん」と厳しく仰ったと言います。そして、外国の人が日本人の飲む味噌汁を見て、「あんなに汚いものを毎日毎日飲む、不思議な民族」と表現していたというエピソードを藤田先生に話し、文化を尊重する、ということについて子供のように中村哲先生が言い含めたそうです。


中村哲先生についてお話しする藤田千代子先生

3. 質疑応答

藤田先生の講演を伺い、受講生からは以下のような質問が出ました。藤田先生の回答とともに、お届けします。


Q. (切り抜き報道のような)日本で見る報道に対する怒りを感じていただろう、と中村哲先生の本の中から感じました。中村哲医師は、日本人にアフガンの現状を知って欲しかったのでしょうか?

A. 中村哲先生はその気持ち、大変強かったと思います。特に、旱魃を伝えてほしかった。例えば、(藤田先生は帰国後、日本でできることとして)月1回はDVD上映会を開き、現地の状況を伝える取り組みを行い、そのたびに、中村先生にもメッセージをお願いしていました。「畑一枚でも元に戻せる可能性がある。旱魃のことを日本人に知ってほしい」というのが変わらない中村哲先生のメッセージでした。
 中村哲先生は報道に対して堪忍袋の尾が切れていました。自分達にできることをコツコツしていくしかない、と思っていたようです。


Q. PMSが行なっている事業は、いちNGOで賄えない範囲なのでは、と感じました。土地所有の権利はどうなっているのでしょうか?

A. アフガンには 地主・小作人の制度もありますが、畑を灌漑するのに文句を言う人はいません。地主にとっては用水路を通しても痛くも痒くもないです。
 しかし、そこを借りて耕している小作人にとっては致命傷になります。中村哲先生にある日突然砂をかけた農民がいました。理由を探ると、地主が用水路を通す許可を出していたが、12人の子供がいた小作人が困っていた、という状況でした。その時は、たまたま用水路の前にあった池の水門番としてその人を雇うことで解決しました。
 PMSが関わるのは、用水路を作るところまでです。アフガンの人々は元農民だったので、畑にどうやって水を流すのかわかっています。
 タリバン政権になって、空き地は国土と明言されました。その後土地を暴力的に奪って家を建てる「土地マフィア」が取り締められるようになっています。
 土地を巡って争わないように、ソーシャルサーベイを今後とも行なっていきたいです。


Q. 中村哲先生の活動を学ぶ中で、中村哲先生自身の存在は大きかっただろうと思います。中村哲先生を失った今、PMS が立ち向かう課題はありますか?

A. 現地活動をいかに日本側に伝えて、支援を続けてもらえるか、ですね。
 中村哲先生と二十数年活動してきた現地の医療チームや用水路づくりの仲間たちがいます。現地風のカレンダーを作る時などに、中村哲先生の言葉が彼らからスラスラ出てきます。そのような時に、中村哲先生のアフガニスタンに対する想いや哲学は現地の人たちにしっかり刷り込まれていることを感じます。


個人的にTAとして参加する中で印象に残っているのは、藤田先生が質疑応答の際にポツッと漏らされた「中村先生のことを表す国語力が足りない」と言う言葉です。今回のご講演でも、またこれまでのご講演の中でも藤田先生は中村哲先生と共に活動する中でかけられた言葉や得た学びなどを伝えてくださっており、中村哲先生の身近な姿と接したことのない私としては中村哲先生のおっしゃる一言一言が含蓄に富んでいらっしゃっただろうと思います。中村哲先生の著書やペシャワール会報を読んで中村哲先生のなされた仕事や考え方について理解を深めようとしている身ですが、共に活動をされていた藤田先生が中村先生のことを表すことに苦戦しているくらいならば、なおさら一元的に理解しようとするのは難しいのだろう、と感じました。

記念講座後に座談会に参加した受講生たち。藤田先生、お忙しい中、ありがとうございました!

4. 次回予告

 次回は、ペシャワール会現会長の村上優先生をお呼びし、ご講演いただきます。中村哲先生の行動の背景となる思想や葛藤について、中村先生の文章を引用しながら紹介してくださる様子についてお届けします。学生時代から中村哲先生を知る一人として、貴重なお話を伺いました。ぜひご覧ください。(#7 村上優先生が観た「中村哲」(2023)

最後までご覧くださり、ありがとうございました。


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