岸田首相襲撃。被選挙権は誰が決める?選挙権のパラドックス

岸田首相襲撃事件で逮捕された24歳の容疑者は25歳以上でなくては選挙に立候補できないということに不満をもっていたということだ。
容疑者はこれを憲法違反であるとして裁判所に提訴もしたが敗訴したとのことだ。

思えば被選挙権が制限されているというのは立候補の意志がある人がその自由を制限されているというのはもちろんだが、実は投票権者もその選択肢を狭められていることになる。25歳以上の人だけから選ぶのか、例えば18歳以上の人から選ぶのかは前者の方が選ぶ自由を制限されていることになる。
橋下徹さんは、選挙権は日本国民限定だが、被選挙権は外国人に与えたとしても日本人がそれを選ぶのだから問題ないとの立場だ。
私個人は現実社会での経験をある程度積んだ人が政治実務をやった方がいいので年齢制限はあった方がいいと思うし、外国人の被選挙権も危険だと感じる。しかし、被選挙権の方が選挙権よりも何となくハードルが高いと感じていたが、被選挙権の方を広くしてもよいという橋下さんの論は面白いと思った。政治のダイナミズムの中でどんな人が適任か思わぬところから候補者が出てくる可能性があるわけだ。
また私は犯罪者でも被選挙権はあってもよいと思っている。犯罪者かどうかは行政権による捜査や司法権の裁定にすぎない。国権の最高機関は国会であり、その構成員は主権者たる国民が選ぶのだから、その結果は行政や司法の決定に妨害されるべきではないし、優越してもよいと思う。
ガーシー前参議院議員のやり方は私は大嫌いだが、国会に出席しないという公約で当選した以上、その意思が貫徹されずに議員の地位を追われるのはおかしいと思う。ルールはあるものの国民の最新版の意思はガーシーさん当選だったのだから。それに議員の多数派が少数派を辞めさせることができるのならば多数派は何でもできてしまう。

政治参加の形式はいろいろあるだろうが、被選挙権がなければ自分が立候補して政治家になり、直接権力をふるうことは当然できない。

そして誰に選挙権や被選挙権が与えられるべきか自体がすでに選挙権や被選挙権をもつ人によって決められる。

2016年に選挙権が20歳以上から18歳以上に引き下げられたが、それ自体20歳以上の人のみによって決められている。18歳19歳の人が決めたわけではない。現状選挙権がない人は自分たちが選挙権をもつようにルールを変えることはできないのだ。では最初に選挙権を持っていた人は誰からその権利を与えられたのだろうなんて考えたりもする。そしてその正当性の源泉とは?そんな無限後退に陥る問いに、「古くから」日本を統べる存在としての天皇による任命という形式の意味があるようにも思う。

一票の格差問題でも、もし選挙無効が裁判所に言い渡されたとしたら、その次の選挙は一体誰が執行するのだろうか?選挙の執行自体が正当に選ばれた行政権によらなくてはならないのだから、前回選挙が違憲無効ならば選挙の執行主体はいないことになる。選挙権と同じようにここにもパラドックスが立ち現れる。

また選挙権や被選挙権は重要な人権の一つだ。よって一度付与されたものを返上させるのは難しい。それは今まで権利が認められていた人に「おまえは選挙権に値しない人間だ」と突きつけることになるからだ。17歳の判断能力が100歳の判断能力を上回っていても現状は100歳の人に決定権がある。決定権の返上を決定権がある人が決める。論理的に不可能ではないがそんなルールの決定に至るには相当の根性を要するだろう。

24歳の自分に被選挙権がないのはおかしいという主張自体は特にバカげたものというわけではないが、岸田さんに爆発物を投げて何になるのか。やっていることはバカバカしいが、その主張から法や民主主義について突き詰めるとパラドキシカルな構造に行き着くということに久しぶりに考えを巡らすこととなった。



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