羽生結弦さん離婚問題についての思考実験

羽生結弦さんが離婚を発表した問題では、そっとしておいてほしいとの意向を結婚報告時にしたにも関わらず、結婚相手の実名が報道されてしまったことについて様々な意見が交わされている。

私も別記事にメディアへの批判を書いた。
この件について今回はひとつ思考実験をしてみたい。

「入籍」との報告であれば、お相手はおそらく女性ということになるだろう。賛否はあるが、行政手続きとして実際に入籍に相当する手続きは男女間でしか認められていない。
しかし、これがもし単に「結婚」することにしました、「人生を共に歩んでいくことになりました」という発表だったとしよう。
今回最初に結婚相手を実名報道した地方メディアはもし調べた結果お相手が男性だった場合にも実名報道したのだろうか。
その報道はアウティングにあたる行動になるはずだが、それも「有名人なんだから」「おらが街のお坊ちゃんの慶事だ」「隠す必要はあるのか。同性愛蔑視だ」などという主張をしたのだろうか。このメディアはお相手を隠すことを「女性蔑視だ」などという意味不明な珍説を披露している。しかも訳のわからない言い訳の中で、結婚や離婚の行動主体をなぜか羽生さんのみとしている。
「お相手を捨てた、守れなかった」という類いの表現はなんなのか。お相手が主体的に離婚を言い出した可能性はないのか。
この頭の悪さは今回の思考実験に効いてくる。

性指向はセンシティブな問題であり、同性婚が現在のような認知を得るまで当事者はとてつもない苦難を経ているのであり、異性婚を報道することとは全く違うという人もいるかもしれない。
しかし異性婚だと発表しにくいセンシティブな事情というのは一切ないものなのか。結婚そのものはたしかにおめでたいことだとしてもセンシティブな事情で詳しいことは差し控えたい、そんな心情は考えられないものだろうか。同性愛だけが取り扱い要注意の腫れ物で、他の事情は特に流行りものはないから同性愛と他の事情とはセンシティブさの度合いにおいて連続性はないものなのか。

結局は単に最近LGBTQが「流行り」だから、アウティングだってバッシングされるのが怖いから報道しないということにすぎないのではないか。報道しないとすればの話だが…
センシティブな問題、そこに取り巻く尊厳や、社会的な華やかさからは垣間見得ない個々人の等身大の生きざま、そういったことに思いを馳せることができるか。
人生のセンシティブなものとはどういったことなのか、この問いにまともに答えられないようであれば、その薄っぺらさが露呈しているといわざるを得ない。
文学的というのも恥ずかしいぐらいだが、そういった側面における人間というものへの想像力や敏感さ、教養などとそれに基づく思考力、そういった人間理解を基礎とする社会正義に対する骨太な理解、こういったものが全く欠けているのだろう。


そして剣より強いペンを握って、実際に人権侵害を行って居直っている実情こそ、そんな輩の実名報道を通して糺していくべきだ。


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