礼節を欠き、生産性もない選挙特番の問題点

東京都知事選は現職の小池百合子さんの圧勝で幕を閉じた。また当初の予想を覆し、石丸伸ニ候補が蓮舫候補よりも多くの票を得た。

私個人は今回特に積極的に応援したい人はいなかったし、結果に対して個人的に思うことはある。
だが、立候補したみなさんの健闘は称えたいとも思う。

今回投票締め切りと同時に小池さんの当確が出て、報道番組が当選者、落選者にインタビューをしていくわけだが、今回に限らずあまりに相手へのリスペクトや品位がなく、愚劣なものが見受けられた。

ネット上でも話題になっているのは日テレの番組での古市さんと石丸さんのやりとりだ。
政治屋の一掃を掲げる石丸さんに対し、政治屋の定義をすでに答えていたのに、もう一度聞いてきて「石丸さんは政治屋と何が違うのか」と食い下がっていた。
バカバカしくくだらない。政治屋という言葉自体、本来最大限に公共性の高い営みであるべきはずの政治で、自分やその応援者に利益を誘導する政治家というような悪い意味、揶揄や侮蔑する意味を最初から持った言葉だ。本人は自分はそんなことはなく公共性に資する政治をやるという意味に決まっているだろうに。
そんなもの、政治の細かいことを理解していないけど、政治の場で何やらズルが行われていることを何となく知っている一般の人に向けてわかりやすく言っているだけだ。
もし石丸さんが政治屋とどこが違うのか本当にわからない、つまり似たような悪どいことをやっていたり、自身の発言と矛盾した振る舞いをしていると思うならその点を観ている一般の人にもわかりやすく質問してぶつけるなりすればいいだろうに。そもそもそれがメディアの役割ではないのか。
メディアを敵対視するような発言も見られる石丸さんの印象を悪くしようと必死なのか何なのか知らないが、中継が終わるとスタジオで石丸さんを貶めることを一方的に放送する卑劣さだ。

とにかく立候補して闘った人に対する敬意がない。ネットで罵詈雑言やありもしないことを言われることもあるこの時代に、敵対性の極地に身を投じることになる政治家に立候補している。当選者はこれから権力者となるのだから厳しいことを言われるのは仕方ないにしても、落選者は一旦は一市民となるわけで、なぜコメンテーターごときがここまで横柄なのだろうか。
コメンテーターだって顔を出して政治的見解を示し、叩かれることもあるのだから「ごとき」は失礼かもしれない。しかし評論してブー垂れてるだけで、しかも行政の実態やら政治の現実、問題点などを一般視聴者にわかりやすく伝えるというコメンテーターの本来の仕事をしていない人ばかりだとすれば「ごとき」と言われても仕方ないだろう。
メディアでとりあえず政治家を叩いて俗情に媚びることで仕事を得ているなら、それこそ保身に走る政治屋と同じレベルだ。
そしてそれ以上に公共の電波で謎の個人的感情やら局の思惑などをぶつける資格などなく、やりたければ自身のYouTubeか何かでやればよい。
今回話題になったのは一応YouTube番組だったようだが、日テレの名前がついているので、その内容が無責任でもいいというのは違うだろう。

ただ個人的感想としては石丸さんも相手の質問意図を汲み取ってもっと簡潔に答えてくれてもいいように思う。マスコミ対応だけでなく、議会でもこの調子だったことを見ると、マスコミへの不満だけではなくそこは石丸さんのキャラクターなのかと思う。


また立候補者はいくら前予想が厳しいものであっても基本は当選しようと頑張っているわけで、下衆の勘繰りのような「次のステップへの売名成功ですね」とか「3位の予想の中2位でしたね」という発言を落選直後の本人にぶつけるのも、相手へのリスペクトを欠いている。
高校野球だってはるか格上の相手とも必死に戦って勝とうとする。負けた選手たちは泣いている。一生懸命やるとはそういうことではないのか。
負けて泣きながらインタビューを受ける泥だらけの主将に向かって「テレビに映れてよかったですね」なんて言うのか。

マスコミがこの体たらくで、ネットでの誹謗中傷もあるから仕方ないかもしれないが、候補者たちも批判を受けて立つ政治家の器ではない対応をする人、それをテレビでもやってしまう人が多くなっている印象を受ける。
同じ番組内で蓮舫さんも、党内が一枚岩で応援してないという話が立憲幹部から出ているということについて質問されて「誰が言ってるんだ?失礼だ」と怒っていた。ご本人が不快なのは仕方ないが、揚げ足取りや揶揄するような質問ではなく、真摯なものだったように思う。すぐに被害者ポジションを取ろうとしたり、攻撃的になる態度はリーダーの器とは感じなかった。社会全体を見渡したり、何か大きなものを動かすのに「自分が、自分が」とか、被害者面だったり自意識過剰だったりするのを見せるのはリーダーとしてふさわしくないように思う。

いわゆる保守派とされる田母神さんは左派メディアから良くは扱われないだろうが、「日本を悪く言うな」とは言っても「自分を大きく扱え」とか、ヒステリックな態度を取ったりとかはしていない。
都知事を任せられるかどうかは別にしてこのぐらいの度量はほしい。


過去にも放送事故級の出来事は起きている。
亀井静香さんに挑んで敗北した堀江貴文さんに、古舘伊知郎さんがくだらない質問をし、「こっちは呑気にそんなこと考えてない」と答えた堀江さんに古舘さんは逆ギレしていた。
古舘さんはプロレスの実況中継をしていた方だ。これも「演出」なのだろうか。

爆笑問題の太田光さんは、落選した甘利さんに「御愁傷様」という声掛けをして、甘利さんは苦笑いしていた。これは本当に胸糞悪かった。
爆笑どころか、まったく笑えない芸人に落ちぶれた分際で未だテレビに出ていられるのが事務所の力なのか何なのか知らないが、人の既得権をあげつらうなんてよくできたものだ。
政治の話なんてポエムのレベルでしか語れないくせに自分ではインテリ芸人気取りなのだろうか。彼の芸の中で最も笑えるのはその勘違いっぷりだろう。


これらは候補者も含めてすべて「プロレス」なのかもしれないが、人への最低限の敬意も示さない画をテレビで流すのはどうなのか。飛躍するようだがいじめを助長するようにさえ思う。

いじめを糾弾するとき、たいてい被害者を無辜の人として表象している。
しかし現実には多くの場合、いじめにも何らかの理由があるものだ。それは別に被害者が悪いということではない。何か多少の落ち度があったとしても、必要の範囲内での叱責や処罰があれば足りる。それを踏み越えて人の尊厳まで踏みにじるのがいじめだ。

政治家というのは究極の公共性をもつ仕事なのだからその職につく人間に厳しく問い詰めたりすることはあっても構わない。
しかしその理屈を武器に、無節操で際限のない攻撃を正当化しているだけではないのかと思う。「政治家に対してだから何を言ってもよい。こいつらにならどんな攻撃をしても構わない」というように。


実際いじめを助長するかどうかは知らないし、候補者が本当に傷ついているかどうかも知らないが、いづれにしろ相手への敬意が見られず、品位のない、美しくない絵面だ。

不見識なうえに、個人的感情ぶつけるだけで仕事した気でいられる「報道屋」こそ「恥を知った」方がいいのではないだろうか。





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