五文銭

三途の川の渡し賃。六文銭

かつて荒れ狂う男たちがこぞって掲げ、命を懸け守った六文銭の家紋。その真意には「何時如何なる時も、死をも恐れぬ決意で臨む」という気迫が表れている。その代表格はやはり長野県上田市を総本山として戦った真田氏だろう。溢れ出る漢気には、現代に生きる僕らにもその心意気を残してやまない、

同じ男として生まれたからには、何らかの爪痕を残さなければ死ぬわけにいかない。それは歴史的なものでも、家系図を絶やさぬことでも、仕事で偉大な功績を残すことでも、誰かの記憶に強く残ることでも何でもいい。とにかく巨大な足跡を母なる大地へと踏みしめること。これが僕の、いや僕ら男の共通目標といってもいい。だが、その道程は著しく険しい。

高く掲げた目標が嘲笑われ、ボロボロにされ踏まれ、折れてしまうことだってある。それに逆らって生きながらえることは非常に難しいことだ。

僕は、はたして六文銭を掲げて生きているだろうか。生きているというよりは生きながらえているというか、あやふやに有限の生を浪費しているような気がしてならない。僕は、年末地元に帰れないというそのことだけで落ち込み、寂しさに涙をこらえるような体たらくだ。男らしさの象徴、六文銭を掲げで生きてくような柄でないと言われれば当然のことだ。地元に戻ったからと言って感染症にかかる確率はとても低い。さらに血気盛んな若者ともなれば感染したとしても無症状や軽症状と言われている。だが地元に帰った時の人々の目を想像するだけで怖気づいて帰ることができない。僕の地元は北海道なので、おそらく屯田兵や地元の名士たちが発展させてきた町であろうと思う。その名士たちは果たして有事の時に故郷の地を離れただろうか。たとえ危険な場所であろうと、それが愛すべき土地ならば果敢に立ち向かったではないだろうか。


奇しくも真田氏と同じ長野県上田市、坂の上に立つ高校で出会い結成した一組のヒップホップアーティストがいる。それがタイトルの「五文銭」という音楽を世に知らしめたMorohaだ。

彼らは真田六文銭に沿って、二文銭から五文銭まで色濃い楽曲を生み出してきた。二人組だから二文銭、なんて考えから現在文銭シリーズの中では最新のリリースとなっている五文銭まで、彼らの思いをつなげてきた。

僕は、彼らに傾倒しているだけの、ただの青臭い、地元を飛び出して何やらやれている気になっている一人の若者としてこの文章を記したい。彼らの革命のリリックのように、ただ自分のことしか変えられないという怒りをぶつけたい。ただ上京タワーを聴いて地元を懐かしむだけの奴にはなりたくない、いつだって六文銭を手に握りしめ、空虚の大都会へ殴り込んでいたい。田舎者だだからどうした。なめてんじゃねえぞって気概で今日も生きていたい。

ただなよなよした僕には、六文銭の気概を背負う勇気がなくて、五文銭くらいが丁度いい。五文銭を手に今日もいく。きっと死んだって「おめえ、この舟に乗るにゃ足りねえな」って放られる五文銭が性に合ってる。死んだって生きたって放られるのは一緒だ。なら生きてるほうがましじゃないかって思える。

初めて一人で過ごす年末。この街は観光客ばかりで、その渦に紛れる気がして寂しさもなかったけど、今年はそうもいかない。喧噪のない黒い空に輝け。手の内の五文銭。

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