見出し画像

いまロシアへいくということ

2023年にロシアへ行くと言ったとき少なからぬ人々に止められた。なにがあるかわからない、情勢がもう少し落ち着いてからにすべきだ、死んだらどうする。などウクライナ情勢に関するニュースによる「ロシア=戦争」というイメージからくる心配を彼らは抱いているようだった。あれだけニュースで報道されればかつてこの国にいたことのある自分でさえ内政が不安に感じられる。ましてメディアでしかロシアを知らない人にとってはなおさら不安だろう。そして制裁に関する報道はさもいまロシアに行くことが不可能であるような印象を与える。だからロシアに行くということに対しての彼らの驚きや不安も理解できるしそれが悪意からくるものではないこともわかる。

またこんな声もきいた。ロシア政府は人々を監視し、人々はプロパガンダを信じ込んでいる。いまあの国に自由はなく、またそこへ行きなんらかの消費活動を行えばその金が巡り巡って弾丸や兵器となり罪のない人々を殺すかもしれない。政治的・倫理的にいまあの国へ行くべきではない。この主張も理解できる。戦争の火蓋を切ったのはプーチンである。そして政府を批判した人々が逮捕されていること、戦争を支持しロシアを正当化するプロパガンダがはびこっていること。そしてそれを信じる人々がいるのもまた事実だと思う。

ではなぜ行くのか。自殺願望か。ロシアを支持しているからか。「西側」の敵だからか。はっきりさせておきたいことがある。わたしはどちら側でもない。というよりよくわからない。戦争は勝つべきものではなく終わらせるものだと思う。だからウクライナはロシアに屈するべきだと言いたいのではない。祖国を失う悲しみも、とてもその計り知れない深さ全てを理解できるとは思わないが、想像できる。「祖国のために」という気持ちが戦争を生むならそんなものはない方がよいように思われるが同時にそれが人々にとって心の支えになりうることも事実だ。

ただひとつ自信を持って言えることがある。人は国家や人種、文化や言語などのあらゆる外的属性を超えて繋がりうるということだ。かつて世話になった人々や友人があの国に住んでいる。わたしたちの間にあるのは互いの暮らす国同士の関係とは別の次元の関係である。それは非常に個人的で一回的なごく普通の人間関係だ。だが個人的であるがゆえに容易に政治的な関係を超えられる。個人の繋がりはときに互いの所属する集団の関係を超越する。国家の対立を超えて個人の単位で繋がることが可能であるという事実は戦争を止める直接的な理由にはならなくともナショナリズムやレイシズムにとっては不都合な事実であり、人と人とを差別化し分断させる言説に常に疑問を提示し続けることができる。

逆に言えば、いまロシアにいきたいという思いを国際情勢を理由にして封じ込めてしまうことはむしろ世界平和の理念に反する行為になりうるように思われる。なぜならばそれは個人の意思をネイションという大きな枠組みに依存させ、「外的属性を超えた繋がり」を放棄することを意味しうるからだ。国際情勢をもとに移動を自粛する判断をするときわたしたちは無意識に自分自身を「こちら側」の存在とし、自分の属する「こちら側」の指針に従って「あちら側」とは距離をとるべきだと判断している。だがここでの判断の元になっている「こちら側」と「あちら側」とは現実に対し遡及的に生み出された言説に過ぎない。「こちら側」と「あちら側」というものがさも現実であるかのように認識されることがあるがそれらは単なる言葉である。一概にとらえることができないはずの複雑な現実をフィクショナルな言葉によって覆い隠し単純な物語に昇華しているに過ぎない。国籍ついて言えば「こちら側」と「あちら側」のどちらか一方に定まらない人々は大勢おり、現実は敵と味方にはっきり分けられるほど単純ではなくより複雑でときにいいかげんである。

先述のような「こちら側」と「あちら側」といった言説に屈することは個人の行動をネイションや人種などの大きな枠の中に限定し、本来ならば繋がりえた他者を彼ら自身の個人の性質ではなく外的な属性を理由に「あちら側」に分類し前提から排除してしまう。そうなれば、何らかの良好な関係を結ぶことが可能であるはずの他者、またかつて良好な関係を築いていた他者との間にあった、または、ありえた「繋がり」を失うことになり、分断や対立を助長する言説や運動に疑問を打ち立てる力が弱まってしまいうる。平和というものが分断や対立を可能な限り減らし、異なる価値観や文化、外見を持った人々が互いに理解しようと努めた先に訪れるものを意味するならば「属性を超えた繋がり」を失うことは平和な世界を目指す上での損失である。したがって政治的イデオロギーの上に成り立つ国際的な対立に個人の意思を従属させることはわたしたちが「平和」ではなく「対立」に貢献してしまうことになりうる。

正直なところ、そこによく知った人々が住んでいて久しぶりに彼らに会いたいという想いわたしがいまロシアにいくことの理由の大部分をしめる。だがこの非常に個人的で些細な理由を政治を理由にねじ曲げないことは一見逆説的だがわたしにとって反戦行為であり政治的行為でもある。ロシアで友人たちに会うことはわたしに人間同士の個人的な繋がりの力強さを確信させてくれ、一国のイメージに対抗する揺るぎない体験を与えてくれる。また、こうした体験をわたしが日本にいる身の回りの人間と共有することで彼らにとってもロシアがより身近な存在になり間接的に彼らのロシアに対するイメージを変えうるのではないだろうか。

国家や人種、文化、言語を超えて人間同士が繋がれる世界を平和な世界だと信じる限り、以上が、いまわたしがロシアへいく理由であり、その倫理性への疑問に対する私なりの答えである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?