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枯れたマロニエ

 都市伝説であると思うのだが、パリのマロニエの並木通りには、一本だけ枯れた木が立っているという話を聞いたことがある。
 それは明らかに周囲の美観を損ねるものであり、美の都、パリにとっては似つかわしくないもののように見える。
 にもかかわらず、それが立っているのは、人間のエゴに対する警告と、そのことを考えるためのキッカケ作りにという理由だと聞いている。

 この木にまつわる逸話。それは、確かに人間のエゴについて考えるにふさわしい内容のものだ。
 1960年代、日本人のツアーの観光客が、そのパリの並木通りを訪れた時のことだ。
 その頃の海外旅行と言えば、今よりもはるかに難しいモノであり、行った人は普段とは違った環境に妙にテンションが上がって、まさに”おのぼりさん”状態。いつもより心が大きくなったことは想像に難くない。

 その中の一人が「せっかくパリに来たんだから、お土産に」と、並木通りのマロニエの木の葉を一枚、もぎ取った。その人にしてみれば、「これだけ、木には葉っぱが付いているのだから、一枚くらい、私くらいは取ってもいいだろう」そんな軽い気持ちだったのだろう。

 それを見た、そのツアー客の他の一人が「あ、それいいですね。私も」という感じで、マロニエの葉を一枚、同じようにもぎ取る。
 人間、おかしなもので、他の人がやっているのを見ると、自分もやらずにはおられない。「皆がやっているからいいだろう」と思うわけで、その内、そのツアー客ばかりでなく、周りの観光客も「私も、私も」と、葉をもぎ取りはじめ、ついには、そのマロニエの木の葉は全て無くなり、木が枯れてしまった。

 「たかが葉っぱ一枚」というたった一人の人間のエゴによる些細なことが、他の人間のエゴを刺激し、ついには木まで枯らしてしまうというそんな話。

 私はその話を聞いた時、寓話にしても疑わしいと感じた。
 「枯れたマロニエの木の存在」がというわけではなく、話そのものが。
 そこまで人間は愚かじゃないだろうという思いがあったのだ。

 つまり「皆がやっているから私も」という時点で、「だけど、それは私はしない」、あるいは「それは止めるべきだ」という人がいるだろうと。
 だから「絶対に木は枯れるわけがない」と。
 そんな思いがあったからこそ、私はこの枯れたマロニエの木の話に、「良心ぶった胡散臭さ」を感じていたのだった。

 ところが、だ。今回の新型コロナウィルスに関連しての、トイレットペーパー買い占め騒動などを思い出していただきたい。
 「トイレットペーパーが手に入らないかも」と誰かが大量に買ったら、私も私もという感じで皆が買い、店頭からは無くなってしまった。
 これでは、枯れたマロニエの樹と一緒ではないか?

 だから、私は今一度、皆さんに、考えていただきたいと思うのだ。

「たかが1つと思っても、たとえば1000人の人が同じことを考えたら、1000個になるのだ」と。

「私一人くらいの思いは、皆が持っているのだ」と。

「皆がやっていたとしても、それを理由にやってよいわけではない」と。

「自分の行動の責任は、皆にあるのではなく、あくまでも自分にあるのだ」と。

「自分が40歳を超えて、いまだにうだつの上がらない独り身だという責任は、世間にあるのではなく、あくまでも自分にあるのだ」と。

「すでに、周囲の同世代の大半が家庭を持っている中、このままでは孤独死する老後しか見えていない」と。

「そんな、不幸な状態でも、”ある日突然、素敵な出会いが・・・”などという夢だけは見させてくれ」と。

・・・ちょっと待て。どこで、結論が変わったのだ!

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