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何者が来たのかと、鋭い眼差しを向ける者。一風景のように私を見る初老。持ってはいけない先入観や偏見が私を襲う。

 肌寒いある夜、ロンドンの中心地区ストランドをキリスト教団体の信者と一緒に私は歩いていた。このストランドに位置するロンドンで最高級のホテルのひとつ「サヴォイ」。このサヴォイのテムズ河に面した側にあるエントランスから20メートルほどのところにホームレスコミュニティがある。

 ダンボールで作られた風除けが雑然と並ぶ彼らのコミュニティ。20~30人はいるだろうか。薄暗く、正直言って私は恐怖を感じた。かつては貴族の社交の場であったサヴォイ劇場とサヴォイホテル。今でもその威厳は残っている。そして、そのすぐそばのホームレスのコミュニティはストランドのストリートとは逆側に位置し、旅行者でなくともその存在に気がつかない。なんというコントラストであろうか。

 ダンボールや毛布にくるまった彼らは私に様々な視線を向ける。何者が来たのかと鋭い眼差しを向ける者。まったく一風景のように私を見る初老。持ってはいけない先入観や偏見が私を襲う。しかし、キリスト教の信者は笑顔でホームレスに話しかけている。「食事の用意があるから、あとでトラファルガー・スクエアーに来るといい」30分ほどホームレスたちと話し、彼らは別の場所へ移動し始めた。

 トラファルガー・スクエアーという大広場に近い英国国教会の教会前に2階建てのバスと数台のバンで拠点を設け、ホームレスにあたたかい食事とコーヒーや紅茶をサービスする。このホームレスへの支援活動をどのように理解するか。リクルートのためであるという解釈は彼らへの内在的理解をまったく排除した一面的な見方である。それでは信仰にもとづいた純粋な利他愛のあらわれか。

 この活動は、信者の皆が行うのではなく、希望者が参加している。ボランティアである。彼らのそのような活動に対してリクルートのためであるという批判が存在する。実際にホームレスから信者になった人もいる。アルコール中毒や麻薬中毒だった人も現在信者として宗教活動をしている。むしろ、生きる活力を失い路頭に迷っていた彼らを救済しているとの解釈もある。しかし、彼らの活動は信仰にもとづいた純粋な利他愛のあらわれであろうか。彼らに同行した時に、比較的若くて健常そうなホームレスを選んで声をかけているように見受けられた。世俗的な意識と宗教理念の相克を感じた。

 しかし、コミュニティハウスに住む43歳の男性信者リアムはいう。「僕らの生活は教会の理念に深くコミットしたものだから、それと無関係のことをする時間はない。」

 リアムがこの教団の信者になってから20年以上も経っている。コミュニティで共同生活をはじめる前は中学校の教師であった。その当時は学校関連のチャリティ募金運動などもやっていた彼だが、現在は時間がないという。リアムは利他主義を「人に利益を施す活動。人にとって何か良いことをする活動」と解釈している。そして、自分自身を「人間的な利他主義ではなくて、キリスト教徒としての利他主義という意味」において利他的であると思っている。「キリスト教は利他的だと思う。しかし,センチメンタルな意味でも人間的な意味ででもないよ。」リアムはキリスト教的利他主義と人間的利他主義を区別して考える。「利他的な行動をするのは、人の為になるからということだけではない。僕は人を助けることによって神の栄光を見たいんだ。人間的利他主義って善行を施すこと自体が目的になってしまうことがある。しばしば自己満足にね。」彼は人間的利他主義の陥る危険性を指摘するとともに、神の栄光への奉仕を語る。それは心理的な欲求を満たすためでも、趣味でもない。彼の利他的行動は神に協力することを意味している。

 リアムはこの教団の信者になってから変わったのだろうか。「聖書はすべての人に善行を施せと説いている」と彼は言う。「僕はすべての人に施しをする心を持っている。僕らが何年にもわたって助けてきたアルコール中毒者や麻薬中毒者の数はすごいもんだよ。どこにも行くところがなくて、誰かにそばにいて欲しい、そんな彼らをね。今ではそういった彼らに対して、ますます心を開いて接することができる。昔の僕だったら考えられないことだけれど。」

 リアムは彼らを救っていくことが「自分たちの生活,奉仕」の重要な一部と考えている。彼のモデルはイエスである。「ジーザスが僕にしてくれたことを僕は人にする。人に仕えることだ。」彼の利他的な行動は人びとに実際的な面で仕えるだけでなく、「スピリチュアルな面」でも仕えることだとリアムは付け加える。「彼らに食べ物を施し,寝る場所を与える。僕らはそういったことをする。でもリアリスティックにならないといけない。もし彼らが神を求める心が本当にないなら、その時には彼ら自身に選択してもらわないと。」それにもかかわらず、「僕らはどんな人に対しても救いの手を差し伸べる心を開いている。20年前の僕だったら決してできないことだ」と彼は回想した。

 44歳のレイチェルは、あるイギリスの仏教団体の信者として10年目をむかえた。ロンドンでほかの信者と共同生活を送っている。得度をしてフルタイムの信者である彼女は、ロンドン大学キングスカレッジの大学病院にあるエイズ患者のクリニック内と国立病院のスタッフに対してメディテイションを教えるボランティア活動を行っている。「メディテイションを仏教センターの外で活かすことにずうっと関心があった」と彼女は言う。仏教団体での信仰生活がレイチェルを利他的に変えたのであろうか。信仰をはじめる前、レイチェルはロンドンの地域健康促進計画のコミュニティワーカーとして働いていた。「人生においてわたしは何をしたら良いかって考えた時に、すでにわかっていたわ。オフィスでお金のためだけに仕事をすることに私は満足しないってことが」と彼女は20代の頃を回想する。彼女にとって「社会や地域社会の福祉に貢献すること」が重要であった。しかし、コミュニティワーカーとしての生活は「ストレスが非常に多かった。」彼女はそのストレス解消にメディテイションが良いのではないかと思い、仏教団体のメディテイションクラスに参加した。

 レイチェルは、彼女が求めてきた「社会や地域社会の福祉に貢献すること」ができる安定した場所を仏教団体に見い出したのである。コミュニティワーカーをやめフルタイムの信者になった彼女が、ボランタリー活動を行ない、別の形で「社会や地域社会の福祉に貢献すること」は自然なことであった。

 レイチェルは利他主義を「ひとの立場になること」と定義する。「自分の事だけを考えるのではなくて、他のひとびとのニーズに気がついていくこと」と彼女は言う。「ひとに対してオープンになり、そしてひとのことを気にかけてゆくことで、自分自身がゆったりでき、自分を解放でき、苦しさがなくなる。このことによりハッキリと気付いたの」とレイチェルは利他主義の恩恵を認める。

自分の事ばかり考えているって非常に苦しい状態だものね。

 ふたりの語りは非常に対照的である。利他的行動が神への奉仕であり、心理的な欲求を満たすためのものでないどころか、神に仕えるものとしての試練でさえあり得ると考えるリアム。一方、利他的行動が自己の解放で喜びにもつながると思索的に捉えるレイチェル。

 阪神・淡路大震災において、宗教とは無関係のNGOでのボランティア活動を通して筆者が感じたことは、宗教団体のボランティアに比べて個々のボランティアが傷つきやすい状況にあるということであった。参加動機はさまざまであるし、必ずしも利他的とは言えず、人間関係でいきづまってやめていった人、子供のカウンセリングを行っていくうちに自己の問題が強く認識され活動を続けられないほど押し込めていた心の傷を再開示してしまった人、気を張りがんばり過ぎて倒れてしまった人などたくさんの問題があった。

 金子郁容(1992)はこのような問題をボランティアにおける「自発性のパラドックス」と呼んでいる。「自発性のパラドックス」とは、自らの自由意志で進んでとった行動の結果として、その自分自身が苦しい傷つきやすい立場に置かれることである。偽善的と言われたり、他者を思いやり行動した結果トラブルに巻き込まれたり、「言い出しっぺが損をする」「わりをくう」羽目に陥り、他者を思いやった自らの行いを自問自答するような「つらい」立場に置かれる。環境問題などにおいては,ボランタリー活動に参加して問題意識が深まり、「自分自身も地球環境を破壊しながら生きている」ということを認識し、そのために強い自己反省からかえって「無力感」「焦燥感」に苛まれる可能性もある。まわりから「偽善的だ」などと言われて引っ込んでしまう人もいる。また理想と現実の乖離に悩まされる人も多い。

 ボランティアであるということは、自己実現や生活の充実という面だけでなく、上記のような潜在的に傷つきやすい面を内包している。であるからこそ個々のボランティアに対するサポート体制が大切なのである。そのサポートはボランティア保険などの制度的サポートや技術的なサポートだけでなく、精神的なサポートも重要である。その面で宗教団体のボランティア活動は特徴的である。宗教が与える世界観と信仰というバックボーンが、個々のボランティアの精神的支えになっている。単なる理念や観念ではなく、信仰を基盤とした利他主義の実践としてのボランティア活動は、ときにはそれが信仰生活の一部であったり、修行の一環と捉えられる。多くの宗教において説教や信者の体験談を通して利他的実践の尊さや宗教的意味合いが説かれるが、その宗教が与える世界観や信仰がボランティアの「自発性のパラドックス」を乗り越える原動力となっていると考えられよう。それは教義や理念ではなく、教会、神社、寺院、教団での日常的な奉仕活動という実践があればこそ可能となるのではないだろうか。

 宗教団体の活動は人の動員力や組織力で強みを持っている。そして、他のボランティア団体の手が届かない、あるいは嫌がる避難所のトイレ清掃などの地道な活動も特徴的である。これらは日常的な清掃などの奉仕活動や利他的実践の延長線上にあると考えられる。

 前述のキリスト教団体や仏教団体での参与観察やインタビューからは、宗教団体のボランティア活動において強制や周りからの目に見えない圧力は感じられなかった。奉仕活動は修行の一環として別の宗教的意味合いをもっているであろうが、ボランティア活動に関しては自発的なまさにボランティアとして参加していると考えられる。しかし、宗教団体のボランティア活動を論じる時、宗教団体においてはボランティア活動がお膳立てされているという指摘は欧米ではあてはまらないが、日本の特殊事情に鑑みると的を射た指摘である。1993年11月の総理府の調査によると,ボランティア活動をはじめたきっかけとしては、「学校、地域、職場、団体などで参加する機会を与えられて」が6割近く、「自発的な意志」は2割弱である。この結果は、日本人の集団主義的発想のあらわれと解釈するよりも、自発的な個人の意志が活かされる社会的状況が整っていないことを示唆していると捉えるべきである。欧米社会ではボランティア制度やチャリティ制度が整備され、社会的にボランティア活動がお膳立てされているのである。すぐに誰もが活動に参加できるように情報と場所が提供されている。たとえ一週間に2時間程度、月に1回であってもボランティア活動に簡単に参加できるのである。このような社会では、宗教団体と一般社会のボランティア活動のお膳立てに関しての議論などは存在し得ない。それほどまでにボランティア活動やチャリティが社会に根付いているのである。

 本稿は以下の一部を抜粋して、加筆修正している。
稲場圭信(1999)「利他主義・ボランティア・宗教:イギリスにおけるチャリティ」『東京大学宗教学年報』ⅩⅤⅠ, pp.27-42.

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