邦楽の持つ"夜"のモード


 最近の邦楽、とくにロックやボカロPの出身プロジェクトなんかは、"夜"という言葉を冠したグループ名が多い。


 夜の本気ダンス・yonige・ずっと真夜中でいいのに・YOASOBI・ヨルシカ……ほかにも探してみてほしい。また、曲名にも夜がついていたり(サカナクションの夜の踊り子とかフレンズの夜にダンスとか)、歌詞の中で夜が強調されているものも多いことに気づく。それほどまでに、昨今の邦楽は、全体的に”夜”というモードを強く意識している。



 この傾向、いったいいつから始まったのだろう。おそらく元を正せば、近代までのクラシックではそこまで夜の雰囲気を強調することはなかったのではなかろうか。とすれば、だいたい1950年代あたり(ブラックミュージックからさまざまな派生が生まれた時代)から、音楽は夜のモードを帯びていったという予測がたつ(古くはSaturday Night Feverなどがその代表曲になるだろう)。

 推察するに、理由は音楽の大衆化と社会のシステム化にある。クラシック時代に貴族のものであった音楽はどんどん安価になり、誰でも楽しめるようになったが、それと同時に社会もシステム化し、誰もが昼の時間を労働に充てるようになった。音楽はあくまで余暇を使う娯楽であるから、昼の時間に聴くことは少ない。こうして音楽はどんどん、「夜に楽しむもの」という属性を付与されるようになっていったのではないか。



 そう考えると、近年の日本で”夜”というのがことさらに強調されるのには納得できる。日本は他の先進国に比べて労働時間が長い(とツイッターで見た。ほんとかどうかは知らない)。昼の労働・登校という”日常”に対し、夜は(毎日訪れるものではあるが)”非日常”を喚起される時間帯である。音楽を楽しむ場であるコンサートやクラブはすべて夜のものだし、なんとなく歌い手やボーカロイドの曲に聴き入る時間帯は深夜である気がする。夜は我々が音楽を楽しむ時間帯であると同時に、非日常を共有し、世界と繋がれる時間帯でもあるのだ。

 そんな”現代の夜”が持つ特別性をモードとして身に着けたのが現代の音楽(とくに邦楽)なんだと思う。だから、オリオンをなぞるのも、踊ってないことを知らないのも、真っ白ですべてにさよならを告げるのも、ぜんぶ夜なのだ。




 だからこそ、この”夜のモード”に日本の音楽が縛られてしまっているのは少し寂しい。なぜならそれは、とりもなおさず、社会に音楽が縛られてしまっているのと同義だからだ。そして、夜のモードを楽しんでいる私もまた、日本社会に縛られた人間であるということになる。


 私は、”夜”から脱却する音楽が生まれるのを楽しみにしている。

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