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統一の道に名を残した愛国人士たち(2)文鮮明編-その1

統一の道に名を残した愛国人士たち(2)
平壌出版社 チュチェ104(2015)年 291ページ

PDF: https://drive.google.com/file/d/1MPKZF_zBbV4BBvjT7Lf2REff9Se4hq6J/view?usp=sharing

経歴

1920年 平安北道定州市円峯里にて出生。
1941年 ソウル商工実務学校卒業。
1943年 日本・早稲田大学電気科卒業。
1954年 「世界基督教統一神霊協会」(「統一教会」)教主。
1968年 「国際勝共連合」創立、総裁。
1994年 世界平和連合総裁。
2012年9月3日 南朝鮮京畿道加平にて、92歳で死亡。
祖国統一賞受賞。

人生の夕暮れ時に運命転換をし、統一愛国の確かな痕跡を刻んだ人々の中には、世界平和連合総裁の文鮮明もいる。

文鮮明、彼は人生の初葉に、亡国の悲しみとともに玄界灘をも越え、解放後には紆余曲折の道を歩み、宗教活動に専念した。
反共を生の神祖、運命の羅針盤とみなした彼は、「国際勝共連合」を創立し、果ては「2世中心の北解放戦略」なるものを持ち出し、数百万の「十字軍」編成まで企んだ人であった。
反共の櫓として彼が漕いできた航路は、反民族、反統一の道だった。
それならば彼にとって、統一愛国の道への人生転換は、いつから始まっただろうか。

人生の末年に訪れた故郷の地、7日間の祖国訪問。
この短い瞬間の数々は明らかに、彼にとって反共から連共へと、運命の舵を取り直したきっかけだった。
彼は、民族団合の大船に乗り、統一の航路にしたがい、再生の櫓を力強く漕いだのだ。
すでに人生の終わりにさしかかった連北の道だったが、民族統一のための彼の熱情は、冷めることを知らなかった。

彼はこう述べた。
「領土は分かれても、民族は分けられない」
彼は、このような統一の信念を抱き、民族の大団合のための、北南協力事業に寄与した。
歳月が流れても、統一のために彼が残した生の痕跡は、今日も同胞の心の中に刻まれている。

反共は宿命か、孤独な航海者

文鮮明の人生は、平安北道定州郡徳淵面上四里(現在の定州市円峯里)から始まった。
1920年1月6日(陰暦)彼は、裕福な農家で、8兄弟の次男として生まれた。
彼は生まれた頃から目が非常に小さかった。
よほど小さかったのか、彼の母は文鮮明を産むと「うちの子は目があるのか、無いのか」と言い、目を無理矢理に開けた。
赤ん坊が目をぱちぱちするのを見て、母は「まあ、一応目は付いているわね!」と喜んだという。
そのように目が小さかったことから、彼は幼少期に「五山のちび目」と呼ばれた。
彼の性格と気質は、大したものだった。

彼は、心に決めたことがあれば、直ちに実行に移し、寝る間も惜しむ性格であった。
悔しいことがあれば、飛び起きてでも相手を呼んできて、けんかの一本を取ることもあり、そんな子を育てていくため、両親はたいそう気苦労した。
幼い頃から性質のきついところがあったため、彼は一度心を決めたら、絶対に譲歩をしなかった。
いつの日か、彼が明らかに誤った行ないをしたことで、母が小言を言った。
彼は「違う、絶対に違う!」と対立した。
すまなかったと、ひとこと言えば済むものを、死んでもその言葉を口から出さなかった。
彼の母の性格もまた、並大抵ではなかった。
「どれ、親が答えろというのに、だんまりか?」と言いながら、幼い彼を無慈悲にぶち叩いた。
どれほど叩かれたか、彼は気絶して倒れ込んだ。
それでも彼は降伏しなかった。
ついに、母が彼を前に泣きわめいたが、そんな姿を見ても彼は最後まで謝らなかった。

定州に設立された五山学校を出た彼は、ソウルへ行き、商工実務学校に入学、3年制学制を終えた。
その後、1943年に日本へと渡り、早稲田大学電気科を卒業した。
裕福な農家の息子として生まれ、日本留学までした彼であったが、日帝植民地統治のもとで育った亡国の民として、反日感情が深まった。
若き彼の胸に反日意識が芽生え、大きくなったのは、祖父の姿から受けた衝撃が大きくかかわった。
3・1人民蜂起で、彼の祖父は、定州五山学校の校長と教員、学生、教会信者、住民とともに抗議を行なうものの、2年刑を言い渡され、義州監獄での苦しみを味わった。
その後も祖父は、独立運動をやめることはなかった。

彼が7、8歳前後の頃であった。
ある日、独立軍が、独立資金が足りず助けを求めようと、雪の降りしきる夜道を歩き、祖父のもとに来た。
「死ぬことがあっても、国のために死ねば福となる」「いま目の前に見えるのは暗黒だが、必ず明るい朝が来る」と話す祖父の声を聞き、彼はこう考えた。
(そのような立派な祖父が、なぜ監獄に入らなければならないのか?
 われわれが日本よりも力があれば、このようなことはないだろうに…)

潜在意識は、成長に現われるものだ。
歳を重ねていくうちに、彼の反日意識は抗拒へと拡大した。

定州公立普通学校卒業式の日の出来事であった。
五山学校へ通っていた彼が、定州公立普通学校へと移ったのには、彼なりの見解があった。
五山学校は当時、独立運動家として知られる李昇薫先生が設立した民族学校だということから、日本語を教えていなかったばかりか、日本語を使えないようにもした。
しかし、彼は考えを異にした。
(敵を知ってこそ、敵に勝つことができる)
彼は、編入試験を受け、定州公立普通学校の4学年に入った。
五山学校と異なり、公立学校は全部日本語で授業を行なう学校だった。前日にかろうじて、平仮名と片仮名を読めるようにして登校した彼は、1学年から4学年までの、日本語で書かれた教科書を、半月にして端まで読み切った。
そうして彼の耳が開いたおかげで、普通学校を卒業する日には、日本語を流ちょうに扱えるようになった。

ついに、卒業式の日が来た。
卒業式には、定州邑の有志と警察署長、郡守、面長が参加していた。
彼らの前で文鮮明は、みずから日本語で演説を行なった。
「…日本人どもは、一刻も早く荷物をまとめて、日本に帰れ。この地は、朝鮮人が代々生きていくべき、先祖の遺産である!」
彼の言葉に、集まった人々は顔を白くした。
問題はその後であった。
日本の警察はその日から、彼を要視察人物として監視した。
彼が日本へ留学に行くとき、警察署長が判子を押してくれなかった。
日本に送ることのできない要視察青年だとして、拒絶したのだった。
彼は、警察署長と派手に争い、談判を得て初めて、かろうじて日本へ留学できた。

玄界灘を渡るべく、釜山に下ったその日。
まさに日帝の植民地統治下で、うめく孤児のような国を置いていこうというのだから、心が痛み、幾度となく泣いた。
(ふるさとよ、泣かずに待っていなさい。すぐに帰ってくるから)
夜風が強く吹く中、彼は甲板の、段々と遠ざかる釜山を眺め、夜を明かした。

(中略。258ページ)日本留学を終え帰国してからも、彼は早稲田大学時代の独立運動者との縁故で、数ヶ月間にわたり警察の拷問を受けたという。
その中で彼は、信仰生活に、より魅力を感じるようになった。

実のこと、彼が宗教と縁を持ったのは10歳の頃であった。
平壌神学校を卒業し、牧師となった祖父の影響で、彼の一家はキリスト教を信じ、熱心に信仰生活を行なった。
そのときから彼は一度も休まず、誠実に教会へと通った。
五山学校時代には新学問に接触しながら、ソウル商工実務学校では黒石洞の明水台イエス教会へ通い、彼の信仰生活はより積極的に行なわれた。
日本留学の時期にも、彼は聖書の学習に没頭した。
運命のいたずらとでもいえようか。
聖書の世界に深く入り込みながら、彼は共産主義思想とその理論を誤ったものであると見なした。
したがって彼は、独立運動を行なっていた友と決別する道を歩むことになった。

のちに、彼はこう追憶した。
「…私は、日本留学時代に共産主義者とともに独立運動を行ないました。彼らもまた、祖国解放のために命を惜しまない、良き友でしたが、彼らと私とでは根本的な考えが違っていました。
 われわれは、祖国が解放された後にそれぞれの道を行くほかないのでした」
日本留学を終え帰国した彼は、再び明水台イエス教会に通い、信仰生活を行なった。

1945年8月15日。
待ちに待った解放の日が来た。
ついに、この地から日章旗が降ろされ、「独立万歳!」のこだまが響いた。誰もが解放の喜びのもとで日々を送った。

しかし、人々の喜びは長く続かなかった。
朝鮮の解放のためには血の一滴も流さなかった米国により、38度線をもって国が北と南に分かれると、文鮮明は京畿道坡州郡のイスラエル修道院に入り、聖書を学習した。
そのとき、分裂させられた国を統一するのだという気持ちを抱き北を眺める文鮮明の視角は、否定的であった。
宗教人である彼にとって、北は神様の存在を否定し、宗教に反対するところとして映るだけであった。

すでに反共に汚染された教徒と成り下がった文鮮明は、1946年6月6日、宗教的基盤を新たに固めるため、平壌へと上った。
当時、平壌の大地は、新たな祖国建設の熱波に包まれていた。
建国事業に立ち上がった平壌市民たちは、一様に普通江改修工事へ出向き、愛国の汗を流していた。
時代の流れと相反して、文鮮明は荒野教会を建て、勢力拡大に奔走し、新たな祖国建設に障害を来たすことの先頭に立った。
こうして文鮮明は、当該機関による当然の法的制裁を受けることとなった。

1950年10月。
戦争の動乱の中で彼は、共和国に反感を抱き、南へと出て行った。
38度線の上で、片足は南側に、もう片方は北側に置き、彼はこう祈った。
「今はこうして南に下りますが、必ずまた戻ってきます」
運命の脱線は、こうして続いていった。
彼は統一を熱望したものの、彼が選んだ人生の航路はかえって統一に逆行し、民族に背く道であることに、その当時は気付くことができなかった。
そのときから彼は、故郷を遠ざける道へと進み、反共の櫓をこぐ孤独な航海者と成り果てた。

釜山市へ下り、東区凡一洞の「凡内谷土の家」を舞台として宣教活動を行なっていた彼は、1954年、ソウルで「世界基督教統一神霊協会」(「統一教会」)を設立し、教主として本格的な布教活動を行なった。
しかし、彼の布教活動は既存の教会からの強い反発に晒された。
既存の教会は、彼を異端、えせ宗教として扱った。
彼らは一様に立ち上がり、文鮮明を処断しろとわめき立て、さらには権力層と結託して政治圏に投書を突きつけ、文鮮明の教会をつぶそうとした。
その騒ぎの中で彼は警察に連行され、3ヶ月の間を刑務所で過ごした。「統一教」は衰退していった。

1961年5月16日。
宗主米国がそそのかすもとで行なわれた軍事クーデターを起こした朴正煕は、軍事独裁「政権」を立てた。
朴正煕「政権」は「反共を国是」とした。
これは文鮮明にとって、勢力を拡大しうるよい「政治風土」だった。
彼は「政権」にすばしこく便乗し、反共活動を展開した。
彼は、南朝鮮「政権」の反共政策を後押ししながら、共和国と同族に反対することに終始一貫して先頭に立った。
北と南の思想と理念の対立の中で「統一教」は「勝共」を押し出した。
「統一教」は、理念のたたかいを人類の最終決戦であると公言した。
文鮮明は、反共(共産主義に反対する)や「滅共」(共産主義を撲滅する)といった単語の代わりに、それらを超越する「勝共」(共産主義に勝利しよう)を選択した。

1968年1月、文鮮明は「国際勝共連合」を組織し、「反共イデオロギー」の拡散に力を入れた。
彼は、共産主義理論を批判するだけでなく、いわゆる「対案」なるものまで提示した「新たな共産主義批判」や「勝共論」などを出し、反共分子の中で大きな呼応を得たりもした。

それだけでは済まなかった。
「国際勝共連合中央研修院」を立て、一般市民や教職員、大学生、軍人、予備軍、警察官、海外同胞、企業家などに対して「勝共理論教育」を実施した。
さらには、反共宣伝のための大規模行事なるものも派手に行なった。
実例として、1975年6月には、ソウルの汝矣島広場にて「救国世界大会」を開催し、1979年10月には全国的に「安保団合大会」を、1985年には「国際勝共安保決議大会」を通じて、人々に「勝共安保意識」を植え付けた。
それでも満足せず、「2世中心の北解放戦略」まで持ち出し、数百万の「十字軍」編成も画策した。

「統一教」が引き起こした「勝共」の波乱は、南朝鮮だけに限った話ではなかった。
彼は、世界舞台へと「勝共運動」を拡散させた。
文鮮明は、世界の多くの国に宣教師を送った。
ここでも彼が特に力を入れたことは、当時ソ連を始めとした東欧社会主義国家に対する宣教活動であった。
彼は、東欧への宣教活動を「ちょうちょ作戦」と名付けた。宣教活動をする「統一教」の信者が、当該国の国家安保機関に拘束されたり、発覚して強制追放を受けたりしたときには、より多くの宣教師を送り込んだ。

しまいには、世界的な「勝共宣伝」を構築しようと妄想したりもした。
1970年代から彼は自ら直接、米国を活動舞台として「勝共運動」を繰り広げた。
彼は米国で「ニューヨークタイムズ」を始めとした言論に「共産主義が米国を脅かしている」と広告し、「ソ連共産主義の世界化戦略とたたかい、自由世界を守らなければならない」と、歴代の米国大統領に対して息を吹きかけた。
1976年には、米国のニューヨークとワシントンで大規模集会を開き、「共産主義拡散防止」のための「国際的共助」の必要性を強調する芝居まで繰り広げた。
1985年には、ジュネーブで開かれた世界平和教授アカデミー総会では、米国シカゴ大学の政治学者・カプランを出して「共産主義の終焉」を宣布させた。
カプランは当時「共産主義の終焉を宣布せよと?どうしてそのような危険なことを…」と、そうしたがらなかった。
文鮮明は烈火のごとく激怒した。
「カプラン博士、何を言っているのですか。共産主義の終焉を宣言するのは、それなりの意味があるからです。あなたが共産主義の終焉を宣言するとき、共産主義はそれだけ力を失うことになるのに、妄説だというのですか?」

こうして文鮮明は、反共のためなら、誰も考えのつかないことまで考案した。
文鮮明は、1990年代に資本主義の「改革開放」をソ連に適用しようとしていたゴルバチョフと会い、宗教の自由を説教した。
彼は、ソ連社会主義国家の解体をもたらしたゴルバチョフを「平和の英雄」に仕立てた。
明けても「勝共」、暮れても「勝共」、「勝共」のもとで毎日が過ぎ、「勝共」のもとで年が変わっていった彼の生涯は、まるで「勝共」のために生まれ、「勝共」のために生きるような錯覚まで起こすほどであった。
そのために、文鮮明と、彼の「統一教」は、共和国人民はもちろん、南朝鮮と海外の同胞、世界各国の人民からも指弾の対象となった。

本人自身も述べたように、彼は「文鮮明の3文字を出しただけでも周りが騒がしくなる、世界の問題人物」であった。
「勝共」という航路で彼が残したものは、反民族、反統一の痕跡であり、得られたものは、同胞や世人の冷ややかな目だった。
一部の国ではさらに、彼の入国を禁止するまでになった。

しかし文鮮明は、未だに自らの航路が北と南の統一ではなく、反統一であることに気付くことができず、70歳の峠を越し、暮れゆく1991年に至った。

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