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統一の道に名を残した愛国人士たち(2)文鮮明編-その2

統一の道に名を残した愛国人士たち(2)
平壌出版社 チュチェ104(2015)年 291ページ

PDF: https://drive.google.com/file/d/1MPKZF_zBbV4BBvjT7Lf2REff9Se4hq6J/view?usp=sharing

故郷を訪ね、運命転換の7日

1991年11月。
国内外世論の焦点は、在外同胞の世界平和連合総裁・文鮮明一行の共和国訪問に集まっていた。
数十年間「勝共運動」の先頭に立ち、教理には共産主義が「サタン側」などとはっきり掲げている「統一教」の教主が共和国を訪問するということは、衝撃的な事件とされた。
以前、ソ連で赤旗が降ろされ、東欧社会主義国家が相次いで崩壊し、特に核査察問題を巡って北南関係が急激に凍り付く中で、米国の対北圧力が強かったことから、彼の共和国訪問は世界の注目をより集めたのだった。
果たして、彼が何のために共和国に足を踏み入れようというのか?
一体、彼の本心はどこにあるのか?
このような疑問符が次々と出てくるのも当然のことだった。
当時、文鮮明の気持ちはこの上なく複雑だった。
骨になっても、故国が恋しくて訪ねるという。
年を取れば取るほど、遠く離れていれば離れているほど、訪れたく、会いたくなるところが故郷の地であるように、人生の夕暮れ時に入った文鮮明の考えも同じだった。
ひたすら「勝共」を生の信条として、故郷を離れた孤独な航路にほとんど一生を費やしてきた彼であったが、老年期に入った彼は、後ろを振り返っては、望郷の感情に浸っていたのだ。
そうするほどに、故郷に対する郷愁は彼の心の中に深くしみわたっていった。
文鮮明は、「統一教」の名前を「世界平和連合」に変えたのに続き、自らの故郷である定州を訪問させてほしいという要求を、共和国に対して提起した。
いくら寛大だといっても、文鮮明のような極端な反共分子まで受け入れることはできないというのが、幹部たちの見解だった。
しかし、金日成主席は考えを異にした。
主席は、文鮮明総裁が共和国に対して大罪を犯したことは事実だが、人生の終わりにでも故郷を訪ねたいというところに、彼の心の一部分に残っている祖国愛を見つけ、その心を大事にしたのだった。
後日、主席は、ある海外同胞人士と会った席で、あのときどうして、あえて文鮮明のような人物を許したのかという質問に対して、わが国が分裂したことも悲劇だが、朝鮮民族の手で統一を成し遂げようというときに、過去の行ないを気にする必要があるだろうか、そうした意味で文鮮明一行と会ったのだと答えた。

文鮮明の故郷訪問実現には、偉大な金日成主席による民族大団結の崇高な意義を受け継ぐ、偉大な金正日将軍の大きな恩情も込められている。
偉大な将軍は、文鮮明が極端な反共、反北で一生を生き、また、社会主義体制を破壊するための、いわゆる「北方外交」でも役割を果たした人物であることを知っていた。
しかし、将軍にとって重要なことは、過去ではなく現在であり、思想と理念の差異ではなく民族愛を基礎とした大団結だった。
将軍は、大きな度量とあたたかい愛で、彼の乱れた過去を問わず、特別飛行機を北京に送って迎え入れる雅量を施した。
このように、偉大な首領たちの崇高な民族大団結思想と広い度量により、文鮮明一行の故郷訪問が実現することとなった。

1991年11月末、特別飛行機に身をのせた文鮮明は、平壌へと向かった。
飛行機は、彼の故郷である定州上空を通過していた。
夕焼けで赤く染まった故郷を見下ろす彼の心は揺れ動いた。
今にでも飛行機を降り、山へ野へと駆け出したい気分だった。

飛行機が平壌飛行場に到着したときだった。
幹部とともに、48年前に別れた家族が出てきて、彼らを待っていたのだった。
祖国は、いかなる差別もなく文鮮明一行を同胞愛の情で温かく迎えてやった。

平壌に到着して6日目の12月5日。
文鮮明は、10年で自然も変わるというその歳月を4周もしてはじめて、故郷の平安北道定州市円峯里を訪れた。
恋しく、夢の中でも真っ先に駆けつけた生家が、まさに文鮮明の目の前に現われた。
彼は、夢かまことか考え、家の前で墓石のように立ち尽くしたあと、部屋へと入った。
生まれ育った部屋へと入り、あぐらで座った。目の前に、若き頃の記憶が昨日のことのように鮮明に浮かんできた。
「ちび目や、お腹が空いただろう?」と母が優しく彼を呼んでいるようだった。
誰かのチマの裾が、さっと彼の目の前をかすめた。

幻影が消え、彼の目にはすっかり変わった円峯の地が入ってきた。
ぼろ家ではなく文化住宅が立ち並び、雑木が茂っていた稜線には果樹園が広がり、企画圃田が果てしなく続いていた。
山河は変わったものの、兄弟と親戚の姿は相変わらずであった。
「故郷を訪問してみると、感慨無量を禁じ得ない。父母兄弟はみな死んだと思っていたが、家族や親戚と会えて、どれほど喜ばしいことか。
 本当にうれしいなあ、うれしいよ」
この文鮮明の喜びは、兄弟親戚が差別を受けず、心配なく暮らしていけるようにしてやった祖国に対する、感謝の情を代弁したのだった。
文鮮明一行は祖国訪問のあいだ、万景台とチュチェ思想塔、凱旋門、メーデースタジアムを始めとする平壌市内の名所と、南浦市、江原道、金剛山などの、地方と名勝地を参観した。
その過程で文鮮明の胸中には、祖国に対する新たな認識が発生した。
事実として、祖国の地を踏む前のことだけを見ても、彼の一行は相変わらず親米反共分子だった。
のちに彼ら自身が告白したことだが、彼らは平壌に「統一教」の教会の一つ二つを立てようと夢見てきた。
しかし、その夢は虚構に過ぎないと感じざるを得なかった。
彼らが北の地で見たものは、チュチェ思想を信念として抱き、偉大な金日成主席と金正日将軍のもとに社会政治的生命体として一心団結した祖国人民の姿であった。
この地で、彼ら自身とは、そして彼らが今まで相対してきた人々とはまるで違う人間を見たのだ。
偉大な父の手のもと、人徳の花園へと生まれ変わったこの地は、完全に別世界だった。
一方で彼らは、この世界で暮らす人々も、自らと同じ朝鮮民族であり、祖国統一を民族の宿願として大切に思っていることを知った。

「血は水よりも濃い」
文鮮明のこの言葉は、北と南に脈々と流れる民族の血脈を目の当たりにしたことで出てきた。
さらに彼は、一つの国土、一つの民族が外政によって二つに分かれ、多くの朝鮮人が分裂の苦痛に身をもがいている民族的悲劇を痛感し、民族のための愛国の道にまことの生があることを、深く悟った。
そうして彼は、朝鮮海外同胞援護委員会委員長とともに、祖国統一と関連した10項目の共同声明も採択、発表した。
声明には、祖国統一を外政の干渉なしに自主的に、対話と協商を通じて平和的に実現すべきこと、制度の異なる北と南が共存、共栄する基礎のもと、同じ民族で一つの統一国家を立てる方法で、わが国の実情に合わせて民主主義的に祖国統一を成し遂げるべきこととともに、血は水よりも濃いのだという原則で、民族の大団結を実現し、力のある人は力を、知識のある人は知識を、金のある人は金を出し、祖国統一実現に積極的に貢献すべきことなどの内容が指摘されている。
共同声明は、国の平和と自主統一を実現することにおいて、歴史の一枚を記録した民族史的巨事として、持続する民族分裂に胸を痛める同胞たちを喜ばせた。

祖国訪問の日程が一日、また一日と流れるほどに、文鮮明の心には偉大な首領への敬慕がより高まり、彼に会いたいという心情が切実なものとなった。
彼は、自らの願いは皆が仰ぐ偉人であり、統一のために苦労を捧げる金日成主席と面会することだと、主席と面会して統一問題に関する教えを請うことが切実な願いだと、関係する幹部に対して繰り返し要請した。
しかし幹部たちは、彼の願いを受け入れることを心配した。
彼を偉大な首領の前に立たせる勇気がなかったのだった。
この事実を知った首領は、天のような度量で彼の願いを寛大に受け入れた。

文鮮明が祖国を出発する前の日、チュチェ80(1991)年12月6日。
彼はこの日、願っていながらも実現するだろうとは信じがたかった、大きな栄光を受けた。
偉大な首領は、文鮮明と会い、彼と温かな談話を交わした。
真の太陽の姿を前にしたかのように、この人こそが朝鮮民族の救世主なのだという考えで、文鮮明の胸は激しく高鳴った。
偉大な首領は、彼が遠路はるばる夫人と親友を連れて祖国を訪問したことについて、とてもうれしく思うと述べた。
そして、このように会って虚心坦懐に話をしながら親しくなったこと自体が、祖国統一のためのよいことだろうと、温かく話した。
続いて首領は、海外同胞援護委員会委員長と彼が共同声明を発表したことについて言及し、みずからもそれに賛成すると、共同声明に書かれた内容を互いが誠実に履行することを信じていると強調した。
やがて、祖国統一問題へと話題を移した偉大な首領は、わが国の統一問題は1972年に北が南とともに発表した7・4共同声明の3大原則、すなわち自主、平和統一、民族大団結の原則によって解決されるべきであると、特に民族大団結の原則で、民族全体が祖国統一という一つの目標のもとに、思想と理念の差異を超えて団結することが重要だとした。
そして、偉大な首領は次のように述べた。
「われわれ二人が団結すれば、その力は一人の力よりも強く、こうして全ての朝鮮民族が団結すれば、統一は必ず実現します」
首領の言葉は、文鮮明に大きな衝撃を与えた。
祖国統一をいかなる外政に委託したり、戦争の方法によったりせず、朝鮮民族自らの力、思想と理念の差異を超えて固く団結した民族の力により成し遂げられなければならないという偉大な首領の言葉を聞きながら彼は、民族を一番に愛し優先する首領の崇高な愛国愛族思想を深く感じた。
続いて偉大な首領は、みずからは以前より民族の大団結を主張してきたとして、1945年10月14日、祖国凱旋を歓迎する10万人あまりの平壌市民を前に、力のある人は力を、知識のある人は知識を、金のある人は金を出し、朝鮮民族の大団結によって新たな民主朝鮮を建設しようと呼びかけたことについて言及した。
そして、40年あまりが経ったこんにちまで、われわれが統一して富強な自主独立国家を建設できないでいることは、民族の大団結を成し遂げられなかったからであるとした。
全民族の大団結で祖国の統一独立を成し遂げるためのたたかいの日々を感慨深く振り返る首領の姿を仰ぎながら文鮮明は、偉大な首領の生涯はまことに民族の大団結のための、愛国愛族の道なのだという考えで、胸が熱くなった。
偉大な首領の話は続いた。
祖国統一を実現するためには、かならず民族の大団結を成し遂げなければならない。団結は力である。力の中でも最も強い力が、人々の団結した力だ。民族の大団結のために苦労する人は、統一を望む愛国者であり、民族の大団結を妨害する人は、統一に反対する売国者である。朝鮮民族の大団結は、あくまで朝鮮民族自身にかかっている。いま朝鮮民族が大団結を成し遂げられないように妨害する勢力は、外部にもいるが、内部にもいる。朝鮮民族内部に大団結を妨害する勢力がいるために、外部からもそのような勢力をけしかけ、朝鮮民族内部にくさびを打ち込み、われわれが団結できないようにしている。朝鮮民族内部が隙間なく団結していれば、いくら外部勢力がそれを妨害しようとしてもできないだろう。…
そして首領は、私はそのような意味で、総裁先生とこのように会えたことをとてもうれしく思うと、このように会って胸襟を開いて話もして、ともに統一の道も模索しているので、われわれはすでに団結したといえると述べた。
首領の言葉に、文鮮明総裁はひどく恐縮し、言葉が出なかった。
民族の大団結を妨害することの先頭に立ってきたみずからの汚らわしい過去が思い出されるからであった。
そうした彼の心情を理解した偉大な首領は、このように述べた。
「私が何度か言いましたが、われわれは過去のことを問わず、互いに団結して祖国統一を実現しなければならず、力のある人は力を、知識のある人は知識を、金のある人は金を出し、富強祖国建設という民族共同の目標を達成しなければなりません」
解放直後、全人民を新たな民主朝鮮建設へと呼び立てた民族団合のスローガンを、こんにちも変わらず掲げ、国を愛し祖国の統一繁栄を願うすべての朝鮮人を、民族大団結の旗印のもと一つに固く結集し、祖国の統一と富強繁栄を成し遂げようという、主席の鉄石の意志と限りなく崇高な愛国の意義が込められた言葉は、彼の心を大きく鳴らした。
続いて偉大な首領は、文鮮明が提起したいくつかの問題と、共和国政府の連邦制統一の方案についても説明してやった。
偉大な首領は談話を締めくくりながら、総裁先生と今日はじめて会ったというのに、また来るようにと、昔からの友のようにまた会いに来ることを願うと、温かい言葉をかけた。
偉大な首領は、同胞愛の情が流れる中で談話を行なった後、文鮮明総裁一行と記念写真も撮り、彼らのために昼食会も用意してやった。

この日の出来事について、南朝鮮の雑誌「新東亜」(2000年9月号)は以下のように伝えた。
「訪北最終日の12月6日午前、文鮮明一行は金日成主席と会うこととなった。
文総裁は丁重に、金日成主席に挨拶した。
会談は昼食まで続いた。
金日成主席は、文総裁の説教調説明を意に介せず、杯を持ちながら『統一をやってみましょう。ともに努力して祖国統一に取り組みましょう』と述べた。文総裁はこれに同意した」
海外同胞の新聞もこう伝えた。
「血は水よりも濃い。
この名言をどのような呵責も嘘もなしに正々堂々と宣言できる偉人は、天のような度量と包容力を備える偉大な金日成主席だけである」
「反共により汚れた彼のような人までも故郷の地に足を踏み入れられるようにし、多くの罪をとがめもせずに会ってやった主席の広い度量と包容力は本当に偉大だ。
鉄が磁石に引き寄せられるように、地球が太陽に引き寄せられるように、多くの人が主席に魅惑され平壌へ、平壌へと飛んでいく、世界の理致をわれわれも知ることとなった」

家を飛び出して横道を歩いたことをとがめるばかりか、そのように温かく接する金日成主席の人品と広い包容力は、文鮮明が過去に民族に対して犯した罪への、心からの反省をみずからするようにうながした。
そして「勝共」から連共へと、運命の舵取りを変えることとなった。
彼は、偉大な金日成主席との席で、自らが暮らしていた定州の生家と家族親戚みなが健在であるのを見て、長いあいだ共和国を非難したことがどれほど誤ったことであったかを身にしみて感じたと、これからは反共をせずに統一のために先頭に立っていくと、心から主席に話した。
祖国を発つ前日の夕宴での演説で彼は、私は11月30日、夢にまで見た祖国の地・北朝鮮に入ったと、これはあくまで金日成主席の温かな恩情があったから可能なことだと述べた。その上で彼は、私はきょう光栄にも金日成主席と長時間会談する機会を持ちました、もちろん人それぞれ意見と見解の差異があるのは事実だが、広く温かい、徹頭徹尾民族を愛する愛国精神に、私は大きく感銘を受けました、私は今回主席と会い、直接感謝を述べる機会があったので、これ以上の幸せはありません、と話した。
続けて彼は、私は北朝鮮訪問を通じて感激とともに旅立ちます、統一の熱望はさらに熱くなり、統一の可能性が目に見えてきました、われわれみなが和解し、理解し、愛し合い、団結し、われわれの宿願である祖国統一の日を一日でも早めていこうと呼びかけた。

故郷を訪れ、祖国を訪問して過ごした7日。
人間の一生において7日はとても短い瞬間に過ぎない。
70歳を超す文鮮明にとってはなおさらで、人生のうちでたったの数千分の一だ。
曲がった松はまっすぐにはならないという言葉があるように、長いあいだ歩んできた人生の道をわずか7日のうちに終わらせ、新たな道を選択するというのは、決して簡単な道ではない。
しかし文鮮明は、反共から連共へと運命の舵取りを変え、それを決して後悔しなかった。
その道はまことに同胞のための、統一のための愛国の道であることを悟ったからだ。
このように、文鮮明にとって7日間の祖国訪問は極から極へと人生の航路を変えた、運命転換のきっかけとなった。
民族のための、統一のための、彼の更生の第一歩が始まったのだ。

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