見出し画像

統一の道に名を残した愛国人士たち(2)文鮮明編-その3

統一の道に名を残した愛国人士たち(2)
平壌出版社 チュチェ104(2015)年 291ページ

PDF: https://drive.google.com/file/d/1MPKZF_zBbV4BBvjT7Lf2REff9Se4hq6J/view?usp=sharing

約束を守り、義理を守り

まことの愛国は、舌の先にあるのではなく、心の中にある。
愛国の言葉は簡単に出てくるが、愛国の行動は起こすのが難しい。
文鮮明は、過去に祖国を離れた道は、民族に対してよい追憶を残す道とはならなかったが、祖国訪問を終え再び海外へ旅立った道は、民族の期待と統一の決心を抱いて行く立派な愛国の道だった。
この道で彼は偉大な金日成主席と祖国の前で行なった約束を守り、民族大団合思想を擁護し、北南間の協力と交流事業にも積極的に参加し、民族の和解と団合に寄与した。
祖国訪問を終え北京へと出発した後、世界の世論は文鮮明の一挙一動から目が離せないでいた。
彼らは、文鮮明の心中を探ってみたりして、自分なりの評価を出した。
まさか、北で反共を引っ込めて連共を主張してみたとしても、北から出てくれば元に戻るだろうという評が普遍的なものだった。
しかし、世論の評価は誤ったものだった。

北京に到着した彼は、すぐに談話文を発表した。
談話文で彼は「こんにち、われわれの課題は祖国統一だ。統一を望む7千万の同胞は、葛藤とたたかいを終わらせ、和解と愛で民族の同質性を回復することに、民族全体で取り組むべきだ」(南朝鮮の雑誌「月刊中央」2014年1月号)と、みずからの立場を明らかにした。
その後も彼は「領土は分かれても、民族は分けられない」の信念を胸に、民族の和解と団合のために奮闘した。

1992年11月。
南朝鮮政局は、14代「大統領」選挙を目前とする中、まさに修羅場だった。
そのとき彼は「南北統一に備えるべき14代『大統領』選挙」という題目の文を発表した。ここで彼は、南北統一のためにあらゆる政党が利害関係を離れ、超党的に協力できるようにすべきであり、「大選」直後、全ての政党は連合し、チュチェ思想のもとに結集する2千万の同胞と心を合わせられるよう、国民精神教育を早急に行なうべきだと力説した。
「政権」の欲望から選挙遊説に執念する為政者と違い、彼は民族の大団合を呼びかけたのだ。
これについて南朝鮮の出版物は「一生を反共運動に捧げてきた彼が見せた行動は、まさに大変な衝撃だった」と驚きを示した。
そんな彼は、空が崩れるような突然の知らせに接した。

1994年7月8日、偉大な金日成主席が逝去したという、民族最大の悲報であった。
彼の目の前には、3年前に祖国を訪問して偉大な首領と兄弟の義を結んだ、忘れがたい出来事が現われてきた。
当時、文総裁は遠くからご苦労だったと言い、不便なことはないかとたずねる、とても温かく気さくな首領に対し、困難を忘れて祖国統一問題について話しては、首領、これからは私のお兄さんとなってくれませんか、と願いを打ち明けた。
首領は彼の言葉に大きく笑い、統一を成し遂げる道で互いに兄弟となろうと述べた。
彼はとてもうれしく、首領に、われわれは兄弟です、と話した。
(ああ、民族の統一のためには政見、信仰、理念の違いを乗り越え、ひたすら愛国愛族の一心で全民族を大きな懐に抱いた、民族のまことの救世主がこうして行ってしまうだなんて…)
彼は悲報に接してすぐに、深い哀悼の意を表し、北京駐在朝鮮民主主義人民共和国大使館に花環を送った。
続いて、彼の側近を呼んだ。
そして彼は、直ちに弔問使節として北に行きなさいと指示し、北で外交使節を応接しないというのなら、鴨緑江を泳いで渡ってでも首領に弔意を表しなさいと頼んだ。
こうして文総裁は側近を平壌に派遣し、首領と結んだ兄弟の義を守り、金正日将軍をいただき統一の聖業を早めることに寄与すると表明した。
彼は、言葉ではなく実践で、北南間の協力と交流事業を積極的に推進した。

1998年4月18日。
偉大な金正日将軍は、「全民族が大団結して祖国の自主的平和統一を成し遂げよう」という不朽の古典的労作を発表し、首領の民族大団結思想を固守して継承発展させ、国の統一を一日でも早く実現するための民族大団結5大方針を提示した。
歴史的な4月南北連席会議50年に際して発表された民族大団結の叢書は、北と南、海外の全同胞の胸の中に民族大団結と祖国統一の熱望を、今までにないほど呼び起こした。

同じ頃、世界平和連合は「リトル・エンゼルス」芸術団を祖国に送った。
1998年5月2日、彼らは飛行機で平壌に到着した。
半世紀以上の民族分裂の歴史において初めて対面することとなった北と南の学生少年は、あれほどに待ち焦がれた統一の日が来たかのような喜びと感激に包まれ、互いに手を取り抱き合って、熱い血肉の情を交わした。
北と南の子供たちが一堂に会して《반갑습니다》(うれしいです)、統一の歌を歌い、民族大団結と統一の熱望を高めた。
世界平和連合の「リトル・エンゼルス」芸術団は、平壌の烽火芸術劇場(当時)で最初の公演を行なったのに続き、招待公演を行なった。
公演出演者たちは、朝鮮民族の悠久な生活風俗と童心世界を、民族的な情緒と色彩が漂うようによく反映した民俗舞踊と、同胞の祖国統一の熱望を込めた歌による、多彩な種目を舞台で演じた。
統一の歌で祖国統一の熱気が最高潮に達したときだった。
舞台の背景には、民族の慈悲深い父である偉大な金日成主席が文鮮明総裁と会う姿が映し出された。
祖国人民と海外同胞はたちまち、総立ちになり熱烈な拍手を送り、出演者の歌声にあわせて歌った。
「リトル・エンゼルス」芸術団の公演活動は北と南、海外の全民族が行き来し、接触し、対話を発展させ、連帯連合を強化するなど、民族大団結と祖国統一のためのたたかいをより力強く繰り広げることにおいて、肯定的な役割を果たすこととなった。
「リトル・エンゼルス」芸術団の共和国訪問については後日、南朝鮮の雑誌「月刊中央」(2014年4月号)はこのように評した。
「1998年5月2日、リトル・エンゼルスの訪北公演も南北文化交流の窓口を開く象徴的事業だった」

文鮮明は、北南文化交流のみならず、祖国との経済交流事業も積極的に推進した。
2000年2月3日。
祖国の西海地区・南浦では、関係部門の活動家と世界平和連合共同議長が参加する中で、平和自動車総合工場の着工式が行なわれた。
祖国は、世界平和連合の、この着工式を歓迎した。
9年前の12月の出来事が思い出される着工式だった。
文鮮明は、祖国訪問の日々、朝鮮海外同胞援護委員会との共同声明の8項に以下のような内容を載せた。
「8.海外同胞援護委員会側は、北半部に対する海外僑胞の経済的投資を歓迎し、世界平和連合側は、北半部で推進する経済事業にさまざまな形式で投資する用意があることを披瀝した」
彼は、祖国を発つ前日の宴会でも、北半部で推進する経済事業にさまざまな形式で投資する用意があることを披瀝したと、私は北半部の豊富な資源と訓練された労働力と賢い知恵に、世界的技術を合わせれば、21世紀の経済の奇跡はまさに、ここ北朝鮮で起こるという事実を少しも疑わないと述べた。
結局、平和自動車総合工場建設事業は、文総裁が祖国を訪問し、祖国と民族の前で交わした約束の一環として行なわれたものだった。
平和自動車総合工場建設にかかる経済的投資は、単に経済的な利得を得るためのものではなかった。
北と南の経済的交流と民族の統一に貢献しようという、愛国の心から行なわれたものであった。
彼はこう述べた。
金日成主席と会った後、われわれは北で平和自動車工場を始めとして、普通江ホテル、世界平和センターなどを運営しています。
平壌市内には、平和自動車の広告塔が8つ建てられました。
…これらは、南北の平和的な交流と統一のための平和活動であり、経済的な利得を得るための活動ではありません。
民族的な愛で南北統一に貢献しようとする努力の一環なのです」(「平和を愛する世界人として」302ページ)

双方の愛国の心が合わさり、平和自動車総合工場建設は着工からわずか2年も経たない2002年4月に竣工式を行なうこととなった。
また、世界に向けて朝鮮民族の力を合わせて作った自動車をこれ見よがしに披露した。
《휘파람》(口笛)、《뻐꾸기》(かっこう)、《준마》(駿馬)、《삼천리》(三千里)…
こんにちも平壌市内の各所には、平和自動車の広告板が大きく掲げられている。
広告板には「民族の力を集め世界へと」の文字とともに、平和自動車製品の姿が堂々と描かれている。
振り返って見れば、民族の和解と団合のための文鮮明の統一愛国活動が遅滞なく行なわれたところには、偉大な金正日将軍の温かな導きが常にあった。
偉大な将軍は、世界平和連合の「リトル・エンゼルス」芸術団が祖国に来たとき、彼らの訪問公演を成功裏に実現されるように、大きな配慮をしてやった。
それだけでなく、文鮮明が偉大な首領と民族に行なった約束を履行し、祖国との経済協力の一環として投資する、平和自動車総合工場を短期間で建設し、竣工式を行ない、成果を出せるように深い関心を向けた。
このように偉大な将軍の熱い愛と信頼を受けたことで、文総裁は人間の澄んだ良心と義理を最後まで突き通した。

2011年12月17日。
偉大な将軍を突然にして失った北側全土と朝鮮民族は、悲憤に包まれた。
文鮮明はその頃、みずからの息子と朴相権・平和自動車代表理事、朱東文・「ワシントン・タイムズ」会長など3名を直接送り弔問させる、清らかな義理の心を見せた。
文鮮明は、偉大な指導者金正日将軍の逝去に深い哀悼の意を表し、花環を送った。
花環は、錦繍山記念宮殿(当時)に丁重に安置されている偉大な指導者金正日将軍の霊柩に進呈された。
文鮮明はまことに、偉大な首領たちへの義理を守り、祖国と民族に対して行なった約束を守り、同胞の和合と民族繁栄のための統一愛国事業に余生のすべてを捧げた。

朝鮮民族の宿願である統一のために捧げたまことの生。
そのような人生は民族史とともに永生するだろう。
文鮮明総裁の死後の出来事がそれを物語っている。

2012年9月3日。
世界平和連合総裁の文鮮明は、病患のため、南朝鮮京畿道加平にて、92歳をもってこの世を去った。
敬愛する金正恩元帥は、偉大な首領たちの愛をそのままに、文鮮明先生に対して祖国と同胞が追憶する永遠の生を授けた。
元帥は、民族の和解と団合、国の統一と世界平和のために注いだ彼の努力と功績を忘れず、みずから彼の遺族に弔電を送った。

文鮮明先生の遺族へ

 世界平和連合総裁の文鮮明先生が病患のために逝去したとの悲しい知らせに接し、韓鶴子女史と遺族に対し、深々と哀悼の意を表します。
文鮮明先生は逝去しましたが、民族の和解と団合、国の統一と世界平和のために注いだ、先生の努力と功績は、永遠に語り継がれることでしょう。

金 正 恩
チュチェ101(2012)年9月5日

敬愛する元帥は、弔電を送ったことに続き、平壌で彼を追慕する行事を盛大に行なうようにした。
元帥は、故人の霊前に花環を送り、友党、宗教団体、関係機関の活動家が世界平和センターを訪れて弔意を表するようにさせる、また一つの、心温まる愛の世界を展開した。

文鮮明の死亡1年に際して、韓鶴子・世界平和連合総裁に、民族の和合と繁栄、国の統一と世界平和のために努力した文鮮明先生の冥福を祈願すると伝え、韓鶴子総裁を始めとする遺族が先生の意志を受け継ぎ、世界平和連合のあらゆる事業の成功を願うとの、恩情のこもった言葉をかけた。
それだけでなかった。
敬愛する元帥は、文鮮明先生の死亡3年となる2015年に、韓鶴子総裁と遺族に対し、世界平和連合前総裁の文鮮明先生の逝去3年に際し、韓鶴子総裁と遺族に対して深々と哀悼の意を表すると、文鮮明先生は民族の和解と団合、国の統一と世界平和のために多くの努力を注いだと、私は韓鶴子総裁と遺族が文鮮明先生の遺志を引き継いでいくことを願うと、弔電を送った。

文鮮明の死後3日目であったチュチェ101(2012)年9月6日。
文鮮明に祖国統一賞を授与することに関する朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会政令が発表された。
朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会は、父なる首領と偉大な将軍の民族大団結思想と祖国統一路線を高く掲げ、民族の和解と団合、国の平和的統一を実現し、民族共同の繁栄のための愛国偉業に積極的に寄与した、世界平和連合総裁の文鮮明に対して、祖国統一賞を授与した。
文鮮明に授与する祖国統一賞が、遺族に伝達された。

祖国統一賞。
民族の一員だといって誰もが簡単に望むことができず、統一のために功績を立てずには受けられない祖国統一賞。
そうであるから人々は、祖国統一賞受賞者のうち一人の名前を呼ぶことだけでも、その人の生を統一のための生、民族のための生として美しく追憶することになるのではないだろうか。
その価値ある生の丘に、祖国は文鮮明を立ててやった。
民族の偉大な父のもとで文鮮明は、同胞の追憶の中で永生する統一愛国人士として刻まれるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?