「人新世の資本論」って何だよ(哲学)

斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んだ。

その感想、というか批判をここに書いていきたいと思うが、先に断っておきたいのは、私はなんら専門的知識を持たないただの素人であり、これは専門的な批判ではなくただの素人の感想にすぎない、ということである。ご了承いただきたい。

まず読後最初の感想としては、「文章が単調、語彙が貧弱、読んでいて退屈、まるで快適な読書体験ではない」以上。だがこれは好みの問題なので不問にしよう。根本的な問題は他にある。

まず、本書前半部分ではSDGsやグリーンニューディールといった流行りの環境政策の批判が展開される。「はじめに」でいきなり「SDGsは大衆のアヘンである!」と安いアジテーションをかまされて不快であることを除けば、ここまではおおむね妥当な内容だと思う。これらの政策は経済成長という資本主義の前提を維持するものであり、二酸化炭素排出量を多少減らしたとしても経済が成長すればそのぶん経済という分母が増えて二酸化炭素という分子も増えるから同じことである、そのうえエコのコストは貧乏人ばかりが引き受けて金持ちは炭素出し放題である、だからSDGsではなく脱成長のコミュニズムでガツンとやらなければ地球は救えない、いまこそマルクスだ、云々。

で、いまどうマルクスなのか、というところが本書の核心部分になるのだが、この肝心の部分が、私にとってはかなり奇怪なことになっていた。

先に断っておくと、本書はMEGAによるマルクスの新解釈を売り物にしている。マルクスは本にならなかった膨大な草稿を残して死んだので、それらのノートを整理編纂して全訳しようというプロジェクト「MEGA (Marx Engels Gesamtausgabe) 」がずっと行われているのだが、私はそのMEGAを全部読んでいないので、もしかすると、これから書くものはただのいちゃもんであるかもしれない。ただここに書くことで私の考えを整理したいので、すべて了承される方だけ読んでもらいたい。

で、その新解釈というのが、「マルクスは晩年に自己批判して、それまでの史的唯物論はすべて間違いだということになった」というのである。

これはかなりなことではないだろうか。

というかもしこれが本当であれば今までのマルクス研究はすべて灰燼に帰し、思想界全体に大激震が走っているはずだが、そういうことが起こっていそうな様子はない。ググってもでてこない。どうなっているのかわからない。マルクスそんなこと言ってたか?どのマルクスだ?グルーチョ・マルクスか?この本は大丈夫なのか?これは論文でいえば査読の段階ではないのか?新書なのをいいことに、まだ白黒ついていないものを盛大に語って一商売しようと目論んでいるのではないのか?

そういった疑問は浮かんでくるが、ここは書評の場であるからいったんわきに置いておいて、その新解釈について見ていこう。

斎藤幸平氏によると、晩年のマルクスは何か新境地に達して、自らの進歩史観とヨーロッパ中心主義を改め、それまでの史的唯物論と生産力至上主義から決別したということである。今日までマルクスは生産力至上主義の思想家だと思われていたのでマルクス主義と環境保護は相性が悪かったが、実は晩年にマルクスはエコおじさんになっていたので、この晩年エコマルクスに準拠したエコマルクス主義を使えば環境保護もドンといけるぜ、ということらしい。

その根拠として引用される文献が『ゴータ綱領批判』と『ヴェラ・ザスーリッチ宛の手紙』なのだが、ここでもやはり疑問を抱かずにはおれない。この二つはどちらも百年以上前から研究されている文献であり、『ヴェラ・ザスーリッチ宛の手紙』などはほんの十数行の文章にすぎない。

確かにこの手紙は、「マルクスおじさんは発展段階に則って社会は発展すると言うけど、それじゃロシアはまず資本主義にならないと社会主義できないんですか」と問うロシア人のヴェラ・ザスーリッチに対して、マルクスが「そうでもないよ」と答えたという、資本主義を経ずに社会主義へ至る可能性を示した文献として重要ではあるが、それにしても、斎藤幸平氏の言うような、マルクスがここにおいて史的唯物論を放棄したなどという読み方は、牽強付会の謂れを避けられないだろう。

普通に読めばこの手紙は、だいたい社会は発展段階に則って発展するけど、まあ、ロシアはいろいろ独自的な要素があるから、多少は例外的な事例もあるかもしれないよね、というあくまでも史的唯物論を前提とした文献だろう。例外のない規則はないからである。ところが、斎藤幸平氏は「これがマルクスが悔い改めて脱成長コミュニズムに転向した証拠だ」という。これでは、「カラスはだいたい黒い」と主張するひとに、「では白いカラスは存在しないんですか?」と詰問し、「白いカラスもいる可能性は否定しない」と答えたところに「見ろ!この人はカラスは白いと言った、従来の主張を撤回した!」と大騒ぎするネット論客しぐさである。

このような極めて脆弱な理論的土台のうえに斎藤幸平氏は主張を重ねていくのだが、この先の展開にも疑問が多い。

斎藤幸平氏は「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」の章で、資本主義はあえて希少な資源を重要な要素として発展することで利益を上げ、人々のコミュニティを破壊し、格差を拡大させてきたと主張する。たとえば火力発電の石油、原子力発電のウランなどである。原発の運営は一般市民には到底できない閉鎖的技術であるから、当然ここからテクノクラート独裁が始まるので大変よくない。我々は閉鎖的ではなく開放的技術に転換しなければならない、という。ここまではよい。わかる。だがこのあとがおかしい。

斎藤幸平氏はその開放的技術として再生可能エネルギーを挙げるのだが、風力発電や太陽光発電でも巨大なプラントが必要であることは原発と同じであるし、ソーラーパネルのために広大な土地が日光を奪われて荒廃し、自然環境が破壊されていることは周知の事実である。斎藤幸平氏は「少なくとも日本では、水は潤沢である」だから水力発電をしろ、というのだが、日本に水を潤沢にするために幾つものダムが建設され、どれほど自然が破壊されたか知らないのだろうか。世界的にみても、水が潤沢だった時代など古今東西ほとんどなかろう。古来、人々は水を求めて河に集まり、洪水に流され、治水の必要のために集権的体制が構築された。どこが開放的技術なのか。

さらに斎藤幸平氏は、現在における脱成長コミュニズムの萌芽として「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」を挙げるのだが、このくだりで私はあきれ果ててしまった。というのも、斎藤幸平氏はワーカーズ・コープのもっとも盛んな都市としてバルセロナを紹介し、「バルセロナはワーカーズ・コープ以外にも生活協同組合、共済組合、有機農産物消費グループなどが多数活動している社会連帯経済の中心地として名高い」とまで書いておきながら、そのバルセロナがスペイン内戦時にアナルコ・サンディカリスム運動の心臓部であったことにまったく触れなかったからである。

1930年代、バルセロナはサンディカリストの金城湯池だった。内戦が勃発すると彼らは政府の支配から事実上独立し、工場や農地を社会化した。全盛期には(ほんの1.2年にすぎないが)すべての企業が労働者の話し合いによって運営され、貧富の格差は廃止されていた。私はエンツェンスベルガーの『スペインの短い夏』やバーネット・ボロテンの『スペイン内戦ー革命と反革命』といった本で、ブエナベントゥラ・ドゥルティやフランシスコ・アスカソ、ガルシア・オリベルといった伝説のアナーキストたちが、敵の国粋派はもちろん、味方のはずの共和派政府やスペイン共産党からも攻撃され、八方塞がりのなか、いかに立派に戦い、そして戦いつつ消えていったかを読んで強く感銘を受けたものである。

そんな私であるから、斎藤幸平氏がなぜ彼らに触れなかったのかよくわかる。彼らはマルクス主義者ではなかったからである。斎藤幸平氏の理想とする社会に現実的にもっとも近づいたのがマルクス主義者ではなくアナーキストであったという不都合な事実を知りつつ(彼の学歴・業績からいって知らないはずがない)、どうせ新書を読むような読者はこんなこと知るまいと高を括って、書かないで済ませたのであろう。私は、そんな斎藤幸平氏に強い憤りを感じている。

全体的に、この本には読者を舐めきっているとしか思えない態度が多い。そもそも、題名で資本論を名乗っているくせに、マルクスの資本論がどんな内容であるかをほとんど説明していない。読んでいない人間には信じられないだろうが、交換価値、剰余価値、労働価値説といった概念すらまったく出てこない。誰も知らない新たなマルクス像だと言いながら、自分に都合の悪いところはごみ箱に捨てて、都合のいい部分だけことさらに飾り立ててして見せびらかしているようにしか思われない。どうせお前らは資本論など読めはしまい、読んでも第一章の「商品」で脱落したにきまっている、だから新書なら何を書いても構うまいと言いたいのだろう。そして反原発や再生エネルギーは好きだがSDGsってよくわかんないというお気持ちリベラルに多少本を売って、NHKの番組にも出まくって、体制への脅威にならない程度の進歩的文化人になって世渡りがしたいと思っているのだろう。

かなり辛辣な見方になってしまった。たぶんこの書評は主観的かつ感情的なものであり、客観的なものではないだろう。

私が批判した部分は裏を返せば、専門的な用語やその解説を省くことで、マルクスは名前を聞いたことがあるだけというひとでも読みやすく、また関心を持ちやすいといえる。新書の役割はそこにあるとはたしかにいえる。そうして関心を持ったひとの何割かがより詳しい入門書に手を出してくれることを願うしかない。去年出た本では田上孝一『99%のためのマルクス入門』がわかりやすく、私にとってもとても学びの多い内容でよかった。もしかすると、『99%のためのマルクス入門』は『人新世の「資本論」』に対抗すべく出た本なのかもしれない。マルクスは生産力至上主義の思想家なのか、といったくだりがあったからだ。できればこの二冊は合わせて読み、思索の素材とするのがよいと思う。

(おわり)

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