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価格という応援値 (2)

広島で有機のお茶を作る、tea factory genの玄さんを訪ねた時のこと。前編で、笹が生い茂る茶畑の手入れを手伝い、有機でお茶を作ることの計り知れない苦労を知ったことを書いた。

畑へ向かう道中で、玄さんが一通りお茶作りへの思い、苦労、これからやりたいことについて話をしてくださった最後に「もっと価格を下げることも頑張らなきゃいけないんですけどね」。とぼそりと言った。

瞬間、私は「それはしないでいいと思う」ときっぱりと言ったのを覚えている。語気も多少強かったと思う。反射的につい強い口調になってしまった。
すでに沢山の茶葉への思い、真摯なものづくりの姿勢と背景にある苦労を聞いたあとで、「価格を下げる」という言葉はまったくお門違いのように感じたのだ。

確かに玄さんの茶葉は、決して安くはない。私も初めてパスザバトンマーケットで知り合い、仕入れのお話をした時、もちろんその価格が正当なものだとは理解した上で、この茶葉を使う上でマフィンの販売額をどうしようかと考えた。
スーパーで50袋98円くらいで茶葉が売られている現代で、その茶葉と比べたときに、もちろん物理的にははるかに値が高い。

けれどそれは不当な価格では勿論ない。誠実で、真っ当な価格だ。
それは玄さんが実際の時間や苦労、原材料費を鑑みて、利益率として適切な価格をつけていると思うという意味でもあるけれど、それだけではない。

真っ当な価格とはなんだろうと考えたとき、その背景にあるのは、原価率30%などという一般論だけが判断基準ではないと私は思う。
そうやって物理的な収支で計算した額=販売値という価値観で玄さんのお茶を考えるだけではあまりに乏しい。

世に少ない無農薬の茶葉を作るという課題を自分に課して、苦労をして、それでも楽しみながら茶葉を作る玄さん。その結果生まれる、飲んだことのないような透き通った瑞々しい茶葉。それはひとつの作品だと思う。
それにつける価格は、茶葉のそれ自体に対する「もの」としての対価、というだけでは足らない。
私はそこに「応援価格」としていくらかを載せたいし、それを鑑みて、玄さんが今の価格を決めてくれていたらと願う。


「応援価格」という考え方を、マフィンを作るようになってよく頭に浮かべる。
難しい挑戦を経て、強い思いを持って、ものを作る人の食材を私はマフィンに使っている。
野菜、茶葉、海苔、お酒、さまざまな力強い作り手の人と知り合ってきた。その生産地を訪ねてお話を聞くと、価格の背景にある物語が見えてくる。皆、並々ならない苦労をしている。たとえ1日手伝っただけでも、翌日に体が痛くなるぐらい、汗まみれになり皮膚が赤くなるくらい、過酷な環境で日々ものづくりをしている。

それを続けられる動機はなんだろう。もちろん一には思いだ。前編にも書いたように「性(さが)」があるのだろうと思う。
でも第二に、あるいは人によっては第三以降の要素には、必ず「お金」がくる。
だって人は、霞を食べては生きてはいけない。おいしい食事を食べ、暖かい床につける、最低限の住環境がなければいけない。生計がそれで立たなければならない。
それだけではなくて、「続ける上で気持ちが疲れないしくみ」がなければならない。
そのために必要なのがお金なのだ。

お金とは、自分が頑張る誇りとプライドを支えてくれる存在だと思う。
自分がマフィンを作りながら、そう感じている。
私のマフィンも決して安くはない。ふだんコンビニで100円のパンを買っている方からすれば、とても日常的とはいえない食べ物だと思う。

ただ、私は価格をできるだけ下げないと決めている。もちろん高すぎるマフィンにはしたくない。できるだけひとつでお腹いっぱいになる大きさで、食べ終わったあとで満足だったと思える価格にしたいと考えている。けれどその基準を守った上で、自分が自分の作ったもの、それに対してかけてきた時間や思いに対して真っ当だと思える価格にしたいと考えている。
自分が健やかに続けていくために、その価格を保っている。

そのために必要なのは、人の理解だと思う。
味だけではない、その背景にある食材のこと、なぜそれを選び、どんな手をかけてそれを加工し、マフィンにしているか。それを伝えることが、価格の裏にある物語を知ってもらうことになる。

毎週、有機で野菜を作る農家さんからたくさんの野菜が届く。
その野菜の時点ですぐに沢山の手がかけられているので、スーパーに並ぶそれよりはもちろん値が張る。私はそれを、彼らがこれからも自分の仕事に誇りを持って、「売れない」からという理由でやり方を下方に変えるようなことがないように、応援するための価格だと思って支払っている。

届いた野菜はすべてすぐにマフィンになるわけではない。泥を落とし、虫を落とし、蒸す煮る焼く、すりおろすなどの下拵えをする。そこからマフィンにするための調理や調味をする。自分でもやりながら途方にくれることがあるくらい、時間のかかる時もある。
チョコチップを頼んで届いたものを袋からざざーっと入れるだけだった頃とは、作るものがあまりにも違う。
それでも私は今が楽しい。今のやり方を続けたい。
そう思えるのはおいしい野菜を作る農家さんがいるからでもあるが、
やはりそれを、自分の決めた対価で購入し応援してくれる人がいるからである。

野菜を調理してマフィンにのせ、提案することにやりがいを感じられているのは、そこに反応してくれる人がいるからだ。
決して安くはない価格のマフィンを手にして、本当においしかったと目をキラキラさせてくれる方がいるからだ。

価格を下げることは、自分の作るものを過小評価するということだと感じる。それは謙遜という言葉にすると綺麗に聞こえるけれど、ものづくりにおいて良いことではないと思っている。
今日も自分を信じて、作りたいものを、楽しんで食べてもらえるものを、尋常じゃない手間がかかっても作ろうと意気込める。自分に妥協をしない。その健全な精神は、心の豊かさがあってこそ成り立つ。

だから私は、価格とは「応援値」なのだと思う。少なくとも顔の見える人が作る「もの」に関しては、応援値とう価値観を持っていたいし、その考え方が少しでも広まったら、世の中にある良いものづくりが、もっと健全に残っていくのではないかと思う。

その人のことを知り、考えに共感し、好きになったら、たとえ1本1000円のにんじんだって買ってしまうかもしれない。

だから玄さんには、価格を下げる頑張りよりも、「知ってもらう」頑張りをしてほしい。玄さんがどんな人物で、どんな思いで茶葉を作っているか。そこにはどんな苦労があるか。私に聞かせてくれた話そのままを、どこかにシェアしてほしい。そう思いながら私はここに書いた。

ものづくりをする人には、たいていその時間がない。だから作り上げたものにどんな物語があるかを、人は知らないままに、ただ価格という判断基準だけでそのものを見る。それは、もったいないことだと思う。

私に何かできることがあるとするならば、その物語を代弁することなのかもしれない。文章で、あるいはマフィンで。自分自身も、自分がやることに対価を支払ってくださる方々に励ましをもらっているように。


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